♯4 恐いところ

―心霊スポット≠廃墟・墓地―




よく心霊スポットを教えて欲しい、或いは案内して欲しいと言われる時に、まず言われるのが「恐い所」を教えて下さい、或いは案内して下さいと言われる。
そこで、私が幽霊が出るという噂のある場所(所謂“心霊スポット”)に案内差し上げても、さして何の反応も示されない。むしろ、廃墟(廃屋)みたいな所に侵入してみたいといった声をよく耳にする。
“恐い所”とはいったいどんな所を言うのだろう?…

“恐い”というのは、個人の主観であって、人それぞれ恐いに違いはある。
私にとって恐いと感じても、その人にとって恐いと感じるとは限らないし、その逆も然りである。
更には、そうなると、存在の有無は本稿では論じないが、所謂「霊感」の有無も影響してくるのだと思う。普通の場所でも「何かある」と感じる人も居れば、全く何も感じない人も居る。
それとて、本当に霊感なのか、先入観や主観のなせるものなのかさえ定かではない。
ましてや、(存在の有無をここでは論じないが)幽霊や怪奇現象というものは、所謂“水物”であって、そこに行けば必ず幽霊に出会える(見える)とか怪奇現象に遭遇できるといったものではない。
そこで登場する“救世主”が廃墟(廃屋)の類、或いは墓地の類である。
直接的に視覚に訴えかけるだけに恐いというインパクトが廃墟や墓地にはある。
故に、「心霊スポット=廃墟、墓地」という図式が成り立ちがちなように思えるのである。
それでなくとも、幽霊や怪奇現象の存在自体が立証されていないのに、そんな中にあって、直接幽霊や怪奇現象に遭遇するのは困難なことである。
そうなると、廃墟(廃屋)や墓地に行くことで、視覚的にも感覚的にも日常とは違った空気を感じる事が出来るわけである。それゆえ、「幽霊が出ると言われる何もない所」と「幽霊の話は無いけど不気味な廃墟」なら、後者が歓迎されるのだと私は考える。
今の時代、彼らが求める“恐怖”とは、江戸時代の怪談や鳥山石燕の幽霊画のような精神世界ではなく、直接的なヴィジュアルで訴えかけてくる恐怖を求めているように思える。
それならば、遊園地の「お化け屋敷」でも事足りるのではないかと言えば言い過ぎか。

大阪の皆殺しの館、芦屋のユネスコetc… 何の因縁話も無い廃墟に怪談が付会され、一人歩きを始める。
ある意味、廃墟(廃屋)などは格好の心霊スポットの生みの親なのかもしれない。






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