♯9 お地蔵様の写真を撮ってはいけない?




これまでに何度か身近な人から「お地蔵様の写真を撮ってはいけない」と言われたことがあった。

最初にそれを言われたのが中学2年生の時。
夏休みの社会科の課題で地域の史跡や歴史を調べてくるというものがあった。
仲の良い友人Hと二人、役所の発行したガイドブックを手に史跡巡りに出かけた。狭い町とはいえ、大人になった今とは違い原付や車に乗れない中学生にとって、電車に乗って知らない町を歩くということは(たかが知れているが、中学生にとっては)ちょっとした冒険にも似たワクワク感があった。

JR塩屋駅で降り、最初の目的地へと向かう。旗振山へと続くハイキングコースを少し歩くと、毘沙門天が祀られた小堂へと着く。周囲には西国八十八か所?の石仏が所狭しと並んでいた。
学校に提出する宿題に載せようとお地蔵様の写真を撮ろうとした時、傍にいたHに止められた。
今までその様なことを聞いた事が無かった私は不思議に思いHに理由を尋ねてみた。
Hが言うには、お地蔵様の周囲には救済を求めて様々な霊が集まってきているので、写真は撮らない方が良い。何か自分にも憑いて来るかもしれない。と言ったような事を教えてくれた。
以前から歴史や史跡に興味のあった私にしてみれば、これまでに何度となくお地蔵様の写真が掲載された本や、路傍のお地蔵様を撮った写真集を見ていたこともあり、また、学校に提出する宿題に載せたいということもあり、頑なに拒否するHを説得して何とか1枚だけ(お地蔵様の)写真を撮らせてもらった。

毘沙門堂を後にして、次の目的地旗振山、鉢伏山へと向かう。
余談だが、この時、時間の節約という大義名分のもと(実際はただの横着)ハイキングコースを使わず、再び塩屋駅に戻り、山陽電鉄須磨浦公園駅で降りて旗振山、鉢伏山に登ったような気がする…
旗振山の頂上にお祀りされている「旗振山延命地蔵尊」の写真を撮り、移動しようとした時の事だった。
傍らにある旗振茶屋のお婆さんに「今、地蔵様の写真を撮らんかったか!?」と詰め寄られた。
この様な物言いも何かとは思うのだが、私にしてみれば何ら悪いことをしているという意識は無いので、「いえ、撮っていませんよ」とただただしらばっくれるばかりである。それでも、お婆さんは詰め寄ってくる。
尤も、今のデジカメと違い一眼レフカメラ、撮ったか撮ってないかを確認する術もない。ひたすらしらを切ってお婆さんの追及をかわした。
ただただお婆さんの迫力に肝を冷やした出来事だった。
思えば、お婆さんにしてみればお地蔵様のお姿を軽々しく撮影するということは不敬極まりない行為だったのだと思う。

ネットで旗振山延命地蔵尊を見ると立派なお堂にお祀りされているが、当時はお地蔵さんが収まるほどの小さな祠で(丁度同じ敷地内にある文殊菩薩の祠ぐらい)、正面には格子戸も何も無かったように思う。(それ故に普通にお姿を写すことが出来たのだと思う)

三度目にそのセリフを聞いたのは、はっきりとは覚えていないが平成10ン年頃。
とある観光地の海岸沿いに建つ廃ホテル(子どもの幽霊が出るという噂がある)を探訪の頼もしいパートナーS氏と訪れた時の事だった。
小高い丘の上に建つホテルに向かうため坂道を上っていると、道端に小さなお地蔵様がおられた。
昭和46年(1971)7月、この付近の海岸裏で崖崩れが発生、死者6人、負傷者26人を出すという災害があった。その時に無くなられた方の供養のために建立されたものだろうか。
お地蔵様に手を合わせ、写真を撮らせて頂こうとスマホを構えた時、傍にいたS氏にお地蔵様の写真は撮らない方がいいですよ、と諫められた。
傍若無人な私と違い、思慮深く信心深いS氏の言葉にドキッとする。
曖昧な記憶だが、その時S氏もお地蔵様を写すのは不敬であるといった旨と、お地蔵様の周りには救済を求める霊が集まって来ているという様なことを教えて頂いたように思う。
いつもなら私の傍若無人な振舞さえ笑ってくれるS氏の諫言なればこそ、しっかりと受け止めなければいけないのだが…
それが個人の取るに足らないメモの様な存在であれ、(あらゆる形で)記録に残しておかなければといういつもの悪い癖で、S氏に謝りながらもお地蔵様の写真を撮った。

何故お地蔵様の写真を撮ってはいけないのか。
私なりに色々と調べてみたが、諸説紛々。
お地蔵様のお姿を写すこと事態がそもそも不敬であるという考え。もうひとつには、お地蔵様の建立されている所は人の亡くなった所が少なくない、お地蔵様には救済を求める霊が集まってきている、石という物は霊の依り代となりやすく、況してや地蔵菩薩の形をしたお地蔵様には殊更のように霊が集まる、つまり、濫りに写真を撮る様なことをするとこれらの霊の救済、安寧を妨げる行為をしていることであり、霊障に遭う可能性もあるというのが一般的な理由のようだった。
しかし、写真を撮るという行為の是非以前に、(私個人の見解だが)そもそもが人の心の世界の話、こうでなければいけない、これこそが絶対的な正解であるというものは存在しないと思う。

それこそ「度し難い」(救いようがない)と言われるかも知れないが、言われてみれば良くない行為なのかも知れないとは思っても、そこに私を納得させられるだけの答えは未だ見出せずというのが正直な私の気持ちである。






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