投稿者 : Black Velvet
はっきりといつの頃の事とは覚えていないのだけれど、今から30年近く前の事なので平成10年から平成12年あたりの頃の事だと思う。
当時、ある大企業の子会社に勤務していた私は残業を終えて帰る頃には深夜になっていた。駅から自宅までの1kmほどの道を徒歩で帰るのが日常だった。
いつの頃からだろう、いつもきまって小さな横断歩道でひとりの中年男性を見かけるようになった。スーツ姿で私の少し前を歩いて行くその男性は所謂中肉中背、背は高くも無く低くも無く、太っても痩せてもいない。ただ、いつも私の少し前を歩いているので顔を見たことは無かった。
だいたい決まった時間に退社しているので、毎日のようにその男性を同じ横断歩道で見かけることも特に不思議には思わなかった。この男性も仕事を終えて帰路についているのだろう程度に思うくらいで、特に何も気に留めることはなかった。否、正確には仕事で疲れて早く帰りたいと思うばかりで、前を歩いている人のことなどどうでもよかったと言った方がぴったりくるだろう。
そんなある日の事、帰路を急いでいた私は少し早足で歩いていた。いつものようにいつもの横断歩道でいつもの男性の背中が視界に入る。足早に歩いている私の目の前にまでその男性の背中が迫っていた。あと二、三歩で男性の横に並びそうになったその刹那、突然その男性は小走りで走り出し、また私の少し前を何事も無かったように歩いていた。
「まさかと思うけど… 不審者と間違われたかな…」
と何か少しモヤッとした気持ちを抱えつつ少し前を歩く男性の背中を見ながら帰路につく。
いつもの横断歩道でいつもの男性を見付けて、いつものように男性の背中を見ながら歩いて行く。
そんな事が何日となく繰り返されたある日、たまたま私が男性に追い付きそうになったことがあった。すると、またしても男性は私を引き離す様に小走りで前に出て、ある程度の距離を置くとまたいつものように歩き始めた。
不審者と思われているのか、ただの負けず嫌いなのか、嫌がらせなのか、私が過剰に受け止めている感は否めないが、目の前であからさまにこのような事をされる少しイラッとした。
それからも毎日のようにその男性を見掛ける。そんな日々が長く続くと、追い付きそうになっては、小走りで距離を置かれということが何度となくあった。
それでなくとも仕事で疲れているのに、つまらない意地を張って中年のオッサン(当時の私から見ればそこそこ年上に見える)を相手に“かけっこ”するのも大人気ない。そう思って好きにさせていた。ただ、心の中でこの男性の事を「ハンミョウジジイ」と呼んでいた。
ご存知の方も居られると思うが、「ハンミョウ」(斑猫、斑蝥)とは日本に広く分布しているハンミョウ科の昆虫。ハンミョウは、「ミチオシエ」(道教え)、「ミチシルベ」(道標)とも呼ばれ、人が近づくと、1~2mほど先に飛んで着地し、度々振り返る。この動きからこの様な名前でも呼ばれている。
つまり、私が近づくと少し手前に飛び出す様がまるで昆虫のハンミョウのようなので「ハンミョウジジイ」と名付けたのだ。(このネーミングに多少なりとも悪意があることは否定しない。)
男性の背中を見て家路を急ぐ、たまに追い付いては小走りに走り出し距離を置かれる、そんなことを何度となく繰り返していたある日。いつものように男性に追い付きそうになった時、また男性は小走りに駆け出した。
特に何があったわけではない、ただ
「いつかはこの“ハンミョウジジイ“と決着を付けなくてはいけない!」
若さ故か、バカなのか、数ヶ月に亘るこの繰り返しに決着をつけるべく私は足を踏み出す。
“決着をつける”といえば聞こえは良いが、ただ単純にこの男性の行動に我慢の限界が来ていたのだ…
しかし、ここで同じように小走りになっては意味がない(と自分で勝手に思っている)。競歩のように全身全霊の力で男性を追い抜く。急激な加速に運動不足の脚が悲鳴を上げるが、それにも耳を貸さずひたすら正面のみを見据えて男性を追い抜く。
どれくらい時間が経っただろう。体感時間にしたら数分だが、実際は数十秒の戦い(?)だったのかもしれない。
これだけ引き離せば追い付いて来ないだろうと思い、上がる息を抑えつつ振り返と件の男性はいなかった。
「消えた??? 逃げた???www」
毎日お互い決まったルート(帰路)を歩いている。片側は車道、片側は歩道より少し高くなった所に民家が立ち並ぶ。ある程度行かないと横に逸れる道は無かったはず… 横道に逸れたとは考えにくい。
まさかとは思うが負けた悔しさからどこかに隠れてしまったのだろうかと、アドレナリン湧き出す脳でバカなことを考えていた。
本当に不思議なことはそれからだった。
毎日のように見掛けていた件の男性は、その日を境に私が当時の勤務先を退社するまで一度も見ることは無かった。
あの男性は一体何だったのだろう。ただの負けず嫌いのおじさんだったのだとは思う。
ただ、このような事を言うとなんでもかんでも心霊に結び付けてしまうオカルト脳と言われるだろうが、死んだことに気付かず何度も飛び降りを繰り返している幽霊の話がある。この男性も自分が死んだことに気付かず通い慣れた通勤コースを歩いていたのではないだろうか。
そんなつまらないことを考えて一人苦笑いしていた。
あれから30年近年月が経ち、これを書いていてふと思ったのだが、そういえば結局最後まで一度もあの男性の顔を見ることはなかった…
今でも思い出しては少し不思議な気持ちになる。