十三墓峠

ご投稿 : ヨーソロ 様

2005-06-03


今回一つお話をさせて頂きます。
しかし、六甲山や近畿圏のお話しではありませんので、ご期待には添えられないかもしれません。

私は、18歳から20歳までの2年間を岐阜県は飛騨高山で学生生活を送りました。
高山は、山奥の小都市だけあって、その類の話は山ほどあり、夏の週末を仲間が集まって涼を求めたものです。
ちなみに私は、霊感と言われるものは皆無です。
金縛りにあったことすらありませんので、今回のお話しが心霊現象かどうかは、全く不明です。

飛騨高山から飛騨古川を経由して富山へ抜ける古い峠があり、その峠の名は、十三墓峠(じゅさんぼとうげ)と言います。
峠の中腹に「十三士の墓」というのがあり、確か石碑を読むと白虎隊の話に似た話だったと思います。

石碑(十三士の墓)は、富山に向かう峠道の中腹の左ヘアピンカーブのガードレールの外に「十三士の墓」と書かれた木の案内看板があります。

墓は、ガードレールをまたいで超えて、さらに獣道のような細い急な下り坂を降りていくと、少し土地が開けた所があり、そこに立派な石碑(墓)が建ててあります。

そのような、山中で気味の悪い所であった為か、私の聞いた所では、当時の5年位前に、殺害された女性の遺体が遺棄されていて、その女性が助けを求めて出てくる、と言うものでした。

興味本位で仲間が集まって、夜の10時頃、車4台で十三墓峠に向かいました。

実はその仲間の中に、前日も十三墓峠に行き、「キャー!」と言う様な女性の悲鳴のような声を何回も聞き、驚いて十三士の墓の前から逃げて行くと、「待ってー!待ってー!」と言う声を聞いた、と言う奴が2人いて、彼らは本当に人だったのかもという不安を抱えていたらしいのです。

十三士の墓に到着し、あまりの暗さと道の険しさに驚きましたが、懐中電灯が4個あったので、前の方の奴、真ん中の方の奴、後の方の奴と分配し、尚且つ急な獣道の下り坂は、みんなが一列になり手をつないで降りていきました。
石碑を囲むように皆でいると、どこからか空気を切るような音が聞こえて着ました。
長い音です、「ヒューーーーーーーーー!ヒューーーーーーーーー!」
そして「キャーーーーーー!」
びっくりしました、皆あわてて道の方に上がって行こうと、われ先に走り出しました。
私は危ない、と思い「落ち着け!」と声を掛けました。
「ばらばらになるな、余計に危ないぞ!」、そして、「ゆっくり、降りた時みたいに手をつないで上に上がろう」と言いました。そして又、「キャーーーーーーー!」
皆顔を見合わせました、その頃には暗闇に目がなれて来ていました。
「みんなええか、墓に手を合わせて帰るぞ」皆手を合わせました。
帰るまで一人として欠けてはならない、と思い声に出して私が人数を数えました。
そこにいたのは、13人でした。

声と墓の因果関係はありませんが、そのときの皆恐怖に耐えながら、ゆっくり、手をつないで、落ち着いて急な獣道の坂を上って行きました。

管理人補足:
「十三墓峠」とは、岐阜県高山市国府町八日町と上宝町荒原を結ぶ「大坂峠」とも呼ばれる峠で、ここに主君に殉じた家臣十三人の墓があることから十三墓峠と呼ばれるようになった。
戦国時代の天正13年(1582)、飛騨の覇権を争って南飛騨の三木自綱と北飛騨の江馬輝盛が現在の国府町八日町において激戦を繰り広げ(八日町の戦い)、江馬輝盛は討死し江馬氏は滅亡した。
それを知った江馬輝盛の家臣十三人は、主君の後を追うようにこの峠中腹で互いに刺し違えて主君に殉じた。
村人は主君に殉じた十三名の冥福を祈るため、十三の墓を作り、目印としてそれぞれの墓に木を植えた。それ以来、いつしか「十三本木(じゅうさんぼうぎ)峠」と呼ばれるようになり、明治になり地図を作成したときに、「じゅうさんぼうぎ」という発音に「十三墓岐峠」の字を当てていた。
その後、十三本の木(墓標)の所在は定かではなくなり、墓は一箇所に合祀され「十三墓峠」と呼ばれるようになった。
峠から少し下った雑木林の中に大きな自然石に「十三士之墓」と刻まれた立派な慰霊碑が建立されている。






本ページはフレーム構成となっております。
左端にメニューが表示されていない場合はこちらからどうぞ。