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 今里大塚古墳 【京都府長岡京市天神5丁目】 (ご投稿 : 死にかけ 様)

「今はお国の非常時、迷信のため、食糧増産ができないようなことがあってはそれこそ一大事だ、あの古墳にくわを入れようではないか」乙訓村今里(長岡京今里)の青年団員らが今里大塚古墳の開墾を主張した。
昭和十七年三月のこと、国が食糧増産を指示している真っ最中でありそういう意見が出てもおかしくは無かった。
しかし村人などの反応は冷たかった。
「あの古墳は乙訓の主が眠るところじゃ。昔くわを入れた為、その怒りに触れて死んだ人があると聞いておる、やめた方がええぞ」といって村の古老は逆に若者をいさめた。
大塚古墳は、かつて乙訓で勢力を誇った豪族の墓と言われ、古墳の怒りにあったという話も根強く村人の間に残されていた。そのため、誰一人として立ち入る物も無く、樹木に覆われた丘がぽつんと手付かずのまま残っていた。
そして耕そうとしていた人はもちろん、古墳に入っただけで手足に大怪我をし不自由な身になった人だって有ると伝えてきた。
さらに村人は昭和八年頃、やはり当時の青年団が、この丘を野菜の研究農場にしようと計画し開墾に踏み切ったことも有ったが、結果は青年団長の死という結末で立ち消えとなり、その時に植えた松ノ木だけが成長した、とも話した。
「それは偶然が重なっただけだ、我々だけで開墾して、村人に迷信だと言うことを明らかにしよう」と青年団長に説得され、とうとう青年団だけで開墾することとなった。
そのことを助けるかのようなことも起こった。
昭和九年の室戸台風の時、古墳から大蛇が昇天するのを四、五人の村人が見たというのだ。
青年団は「これこそ乙訓の主が天国へ帰っていったと言うこと、古墳には何も住んでいない、」と、張り切って開墾を始めた。
四月下旬にはサツマイモの苗が植えられた。
しかし八月には村人の間で、「やっぱり乙訓の主はまだ住んでおられたのじゃ」とささやかれ始めた。
芋の収穫を見ないまま青年団長が急死したからであった。



 笠置山 【京都府相楽郡笠置町】 (ご投稿 : 死にかけ 様)

京都でも有名な心霊スポットとして、笠置ホテルという廃ホテルがあるのは有名な話ですが、じつはもっと怖い恐怖スポットが笠置にはあります。
それこそ笠置山そのものです。ここは鎌倉時代末期、後醍醐天皇が立てこもって鎌倉幕府の兵と戦った古戦場なのです。
この戦いでは天皇の側の兵が山の上から、山を登ろうとする鎌倉兵に対して、何トンも有る石を大量に投げつけた物ですから、谷はミンチ状態だったそうです、だからその血が散乱した谷は未だに赤血谷という地名が残っています。
また、山の上では、何トンも有る石が普通の人でも動かせると言う、ゆるぎ石が未だに残っています。なんかの怪奇本でゆるぎ石は出ていました。



 鴨の河原と髑髏町 【京都府京都市】 (ご投稿 : 死にかけ 様)

京都の中でも最強クラスの怪奇な場所をご紹介いたします。
それこそが京阪五条駅から清水寺に至る道です。
謡曲、熊野の中にも「げにおそろしや」などと書かれてとても有名です。
まず五条駅から鴨川に出て少し歩くと、そっからして怪奇ゾーンです。
その場所こそ平安時代からの正規の京都の処刑場、六条河原です。保元の乱で平忠正が切られて以来、この美しい川のほとりに命を落とし、首をさらされた人は数知れません。有名な人物だけでも、木曽義仲、平宗盛、楠木正成、そして秀吉の家臣、小西行長、安国寺恵瓊、石田三成と本当に多いです。石田三成は、首を切られても目が開いていたので、首切り役人が急いで首を起こしたそうです。あと四条河原は幕末の時に切られた人が多く島田左近、本間精一郎、目明し文吉などが有名です。
後忘れてはならないのが三条河原です。豊臣秀吉の甥っ子秀次の妻妾幼児たちが処刑された事件が有名です。39人も切られ見物人ですら幼児が処刑人にひっさぐられて殺されていくのを見て「こんなに惨かったのなら、行くのではなかった」と泣いた人が多かったとか、川の水の色が変わったと言うがあながち誇張でもないのではないかと思います。

鴨の河原から、数百メートル歩くと六波羅蜜寺に出ます。ここも怪奇の舞台です。
そして平清盛の館があったり、鎌倉時代は六波羅探題が置かれた場所でもあります。
この場所は今は轆轤(ろくろ)町と言う名前がついてますが、今から400年年前、この辺りから大量の人骨が出てきたので、昔は髑髏(どくろ)町だったそうです。
そういえば、手塚治虫の漫画『火の鳥』の乱世編の中で清盛の館の庭から大量の骸骨が出てくるシーンが有りますが、(今昔物語が原点だったような?)本当にあった話かもしれませんね。



 九想観図 【京都府京都市東山区松原通大和大路東入二丁目轆轤町81 西福寺】 (ご投稿 : 死にかけ 様)

西福寺には恐らく日本一恐ろしい古い日本絵画があります。
九想観図と言われる絵画ですが、それはどのようなものかと言いますと、嵯峨天皇の皇后に檀林皇后という人物がいました。とても美しい人物だったそうですが、死ぬ前に、人間がいかにはかない存在であるかを示す為に、自分の遺体が腐っていき犬に食べられる姿を絵に書かせたという伝説があります。それが九想観図という絵画です。
あとこのお寺の場所は六道の辻と呼ばれた場所ではないかと言われています。



 こんにゃく橋 【京都府相楽郡山城町】 (ご投稿 : 死にかけ 様)

昔、椿井家の息女市姫が若くしてなくなったので、遺体を棺おけに入れて石で蓋をしてから埋めたそうだ。
市姫が葬られた後、山城の国では戦がたびたびあったり、激しい地ぶるいが起こったりしたため、ある時、棺おけの蓋だけが土の中から出てきてしまった。
その時村では橋の架け替えが行われていて、棺おけの石の蓋が手ごろだったので橋に渡して使ってしまった。その石の蓋がこんにゃくそっくりだったので「こんにゃくばし」と村人は読んだそうである。
ところで亡くなった市姫には好きな人がいたのだが、悲しいことに、恋が成就しないうちに死んでしまった。その為だろうかこんにゃく橋の近くで「市姫こーいこい」と大きな声で叫ぶと、青い火が橋からふわっと飛んできたと言う。
ただ村人は怖がることなく「市姫さんが、好きなお人を恋しがって飛んできてはる」と愛着を持っていたようであったらしい。
こんにゃく橋は今はコンクリートに作りかえられているのだが、その後こんにゃく橋はどうなったか。
昭和二十八年この辺りは南山城大水害によってとても大きな被害が出、たくさんの人が亡くなった、その亡くなった人の名前を刻んだ記念碑としてこんにゃく橋が選ばれ、今でも山城町綾瀬の地にこんにゃく橋は立っている。



 流れ橋 【京都府八幡市岩田大谷】 (ご投稿 : The3 様)

京都の八幡市にある、流れ橋(管理人補記:上津屋橋とも)も幽霊はいます。
見たことはないのですが、橋に行くと、大勢の人にみられてる感じがして、身震いがします。
橋に行く前から、橋に近づいていくと引き返したくなります。
友達はそこで写真をとったら写ってたみたいですが・・・



 業平火(なりひらび) 【京都府京都市西京区大原野上羽町】 (ご投稿 : 死にかけ 様)

「夕べも、業平卿の人魂が出たそうな」
月明かりも無い闇夜、在原業平の墓にそびえるクスノキに、ボウッと青白い火の玉が現れ、輪を描きながら北方の集落(南茶屋)の池に向かって飛んでいく。
そこで一瞬消えたかと思うとまた現れ、池の面から飛び立ち、輪を描きながら元の墓に戻り消え去るという。
この人魂については悲恋物語がある。
平安朝の歌人、在原業平が大原野の小塩山十輪寺に身を寄せたのは、五十歳を過ぎたころ。
桓武天皇の皇孫で華麗な恋と放浪に身を任せた業平だったが、政治的には当時勢いを増していた藤原氏に抑えられ不遇のみをかこっていた。
そんな業平にとって、美しい自然と静かな環境に囲まれた大原野の里は、心の痛手を癒すのに絶好の場所。近くの上羽村に住む母、伊登内親王を訪ねたり、風流人のたしなみである塩焼きなどをしてつれづれを慰めていた。
ちょうどそのころ、南茶屋の農家に一人の美しい娘がいた。
ある時、近くを散歩中の業平の姿を垣間見た娘は、人目で恋をしてしまった。娘は幾度となく、業平の散歩の時間を狙って姿を身に出かけた。 しかし恋を打ち明けるには、自分はあまりにも身分が違いすぎる。悩みに悩んだ末、娘は思いがかなわぬ辛さから、池に身を投げて死んでしまった。
そんなことはつゆ知らぬ業平は、後で村人からそのことを聞いて悔やんだ。そして、その後業平もこの娘の一途な思いに哀れをおもいながらこの世を去った。
それから、この人魂が現れるようになった。
村人達は「業平様の魂が、自分を恋い慕ってくれた娘のところへ会いに行くのだ」と噂するようになった。
この伝説は、主に大原野灰方町で語り継がれており、同上羽町の村人も昭和七年頃の初夏の夜、田の中で2メートルほどの高さを青白い火が飛んでいくのを見たといい、その音は蜂の群れが羽ばたきするような音だったという。



 三室戸 【京都府宇治市菟道界隈】 (ご投稿 : 死にかけ 様)

宇治市には三室戸という場所があります。その近くには宇治川という大きな川が流れています。
その昔、三室戸のあたりの河原には、大雨が降った後にいろんなものが打ち上げられることがあった。
その中には変わり果てた姿となった、何体かの死体もあった。これらの死体は土手の大きな木の根元に掘った穴に投げ込まれた。
それから川は流れを変え、木は枝をはり、その周りは深い草むらになっていった。
ある夏の夜、大雨の前に土手を見に行った村人は腰を抜かした、草むらの、あっちこっちに形をなさぬまま人間の骨が散らかり、その中にいくつもの頭蓋骨が川上の方を向いてころがっていた。
「なんとむごい、長い間野ざらしのままで、さぞかし家に帰りたかったやろなあ」
村人はぼろぼろになった骨を残らず大切に拾い集めた。
そして村でお金を出し合って供養塔を立ておまつりをした。
それからあとはこの辺りに水死体は上がらなくなった。
しかし、供養塔の掃除に行く時は一人ではいけないという。一人で行くと気付かないままに霊がついてくるからだという。

ある意味千年の都京都の実情を表していると思います。
記録によると室町末期等に京の鴨川が死体でいっぱいになったことがあったそうです。
そのころの話かなと考えたりもするのですが。



 六道の辻 【京都府京都市】 (ご投稿 : 死にかけ 様)

六道の辻を現代語的に訳せば、まさに魔界の扉だと思います。
つまりこの辻を境にして東は死者の世界、そしてこの辻より西は、生者の世界と考えてもらっていいと思います。樋口清之先生の逆日本史という本を参考にこのことを説明いたしますと

まず庶民が京の都で死ぬと、この六道の辻で十念といって南無阿弥陀仏を十回唱えてもらいます。そしてどこに行くか実は清水寺なんです。そして清水の舞台から死体を落としていたそうです、つまり京の一部の地域の庶民はある意味一生に一回は、清水の舞台から飛び降りていたんです。
清水の舞台から飛び降りるつもりでって言葉がありますが、そこから来ていると言われているそうです。そして舞台が作られた意味は、死体を落としても匂いが上がってこないようにする為だったそうです。だから清水の舞台の下を見ると(音羽の滝の近く)今でも沢山の石仏があります。そういうことがあったので置いてあると思うのですが。京都に昔から住む人々にとって清水さんは先祖の霊がいる場所なのかもしれません。

西福寺から数百メートル東に行くともう一つの六道の辻ではないかと言われている場所である六道珍皇寺もあります。六道珍皇寺は冥界の井戸とか小野篁とかで有名な場所でもあります京都の魔界関係の本には必ず出てきますね。その近くに幽霊子育て飴の飴屋さんもありますが、この部分は多分知っている人も多いと思いますので割愛させていただきます。