![]()
猪名川と一庫大路次川(ひとくらおおろじがわ)の合流点からゴルフ橋を渡り、一庫大路次川に沿って小童寺方面へと抜ける細い道がある。
雑木林の間を縫うようにして走るその道は車一台分ほどの道幅で、片側は一庫大路次川、片側は雑木林や山肌が迫ってきている。道沿いには能勢川キリスト教会をはじめ、関連施設と思われる能勢川バイブルキャンプ、日本バプテスト同盟猪名川キヤンプ場のふたつのキャンプ場がある。
ゴルフ橋周辺にも不思議な話がいくつかあるが、この道のゴルフ橋から能勢川キリスト教会までの間辺りでも不思議な現象が起こると聞いた。
周辺は「餓景」(がけ)という奇妙な地名が付いている。
「餓景」の由来を知るべく、他に同様の地名がないかと調べてみたが見付ける事は出来なかった。ただ、関係があるのか否かは分からないが「餓鬼ののど」や「餓鬼がのど」と付く地名がいくつかあることを発見した。 兵庫(神戸市)の餓鬼の嗌については、『兵庫の街道』(昭和49年、神戸新聞社 著、のじぎく文庫 刊)に以下の様に書かれている。 『四十六年五月に完成した「みのたに青葉台住宅地」の南を流れる山田川。両側から奇岩、絶壁が迫り、川をせばめる。まるでノド首のようだ。河床にも大きな岩がごろごろ転がる。この中を水がせり割るように急流をなしていたので、土地の人が、「ガケのドンド(呑吐)」と呼んだ。それを村にいた漢文学者が「餓鬼の嗌(ガキノノド)」の文字を当てはめ、名所にしたという。呑吐は水の流れがよどんでたまるところをいう。下流の衝原にも「呑吐」はあり、ガキノノドとともに山田三勝の一つになっている。』 また、両側から山が迫り、川幅も狭く流れも速くなっており、まるでいつも乾き飢えている餓鬼の嗌のような様子から「餓鬼の嗌」と呼ばれているともいう。 山梨(北杜市)の餓鬼の嗌については、江戸時代中期の儒学者、荻生徂徠の著した『峡中紀行』(宝永3年(1706))、江戸時代後期の儒学者、大森快庵の著した『甲斐叢記』(嘉永4(1851))に以下のようなくだりがある。
「前に塁所を望む。迺(すなわ)ち峻嶺(しゅんれい)盤曲(ばんきょく)する処、中間稍(やや)平なるもの、三四十歩可(ばか)り、闊(ひろ)さ僅かに十数歩。後ヘ崇(たか)く前ヘ庳(ひく)し、腹寛(ひろ)く口窄(すぼ)し。地獄變相(じごくへんそう)中、焔口鬼(えんくき)、細嗌(さいあい)大肚(だいと)なる者の状(かたち)に似たり。故に土俗、名を命すること、爾(しか)り。」 『峡中紀行』
「餓鬼嗌、澗流(たにがわ)に臨たる峻(たか)き嶺の上にあり。山の盤曲(おれまがり)たる中間(なかほど)に少しく平なる處三四十間許に十問余りの濶(ひろ)さなり後の方(かた)は崇(たかみ)にて前は庳(ひく)く、入口窄(すぼ)くして奥は寛(ひろ)し、地獄變相の中に畵たる肚(はら)大(ふと)く嗌頸(のどくび)細き餓鬼という者に似たればとて、如此(しか)目(なづけ)しとなん」 『甲斐叢記』
これらの話から鑑みるに「餓景」も一庫大路次川に由来する地名かも知れない。
注.1 余談だが、主にこれらの地形は大部隊の通過が困難なため戦術上の要害とされることがある。例、山梨県須玉町の源太ヶ城址の「餓鬼喉」、同県武川町の石空川上流の「餓鬼の嗌」など。
|