御願塚古墳

御願塚古墳
兵庫県伊丹市にある5世紀後半に築造されたと考えられる帆立貝式古墳(前方後円墳の一種)。
全長52メートル、前方部は前幅19メートル、長さ13メートル、高さ2メートル。後円部は直径39メートル、高さ7メートル。周濠の幅8~11メートル。

御願塚(ごがづか)古墳は塚口古墳群の北端に位置し、かつて御願塚古墳を中心として200~300メートルの範囲内に満塚(みちづか)、掛塚(かかりづか)、温塚(ぬくめづか)、破塚(やぶれづか)と呼ばれる陪塚(ばいちょう、ばいづか)(注.1)と思われる4基の塚が存在していた。「御願塚」の名称は御願塚とこれら4基の塚を合わせて「五が塚」あるいは「五ヶ塚」と呼んだことに由来するとされている。
古墳の頂部は削平され、延宝9年(1681)の創建とされる第36代孝徳天皇を祭神とする南神社が建立されており、御願塚村では長らく孝徳天皇の陵墓であると信じられていた。塚口古墳群はじめ多くの古墳が宅地開発により失われた中で、御願塚古墳だけがほぼ当時の姿を留めているのはこれらのことも関係していると思われる。満塚、掛塚、温塚、破塚は宅地開発により消滅し、かつて塚が存在していた場所に石碑が建てられているのみである。

明治8年(1875)に村民が政府の許可を得て発掘調査を行った。その時、地中より石室の一部と思われる石組が現れたが、作業の中断を命じられたため詳細は判明しなかった。
大正4年(1915)に改めて発掘願が出されたが、許可が降りず内部構造は不明のままである。
村民は御願塚古墳の陵墓指定(孝徳天皇領陵)を願い出ていたが、大阪磯長陵(おおさかのしながのみささぎ)(注.2)が孝徳天皇陵と比定されていることを理由に却下された。後年の調査により陵墓とする説はほぼ否定されており、現在では当地の豪族を被葬者とする説が有力である。

昭和41年(1966)3月に兵庫県史跡・文化財指定を受けた後、昭和44年(1969)に伊丹市教育委員会が第1次発掘調査を実施。以後も断続的に調査が継続されており、平成11年(1999)7月25日には伊丹市教育委員会による古墳の保全工事と周辺部の史跡公園化工事が完了、平成12年(2000)度には主墳部の保全工事が行われた。
不思議な事に調査のたびに係わった研究員や調査員が原因不明の重病を患ったといわれている。




2010/11/22 追記
平成21年(2009)10月14日、ここ御願塚古墳で伊丹市内の市立中学校に通う中学二年生の男子生徒が上級生達8人より集団暴行に遭い意識不明の重体となり、同17日頭部打撲による急性硬膜化血腫など(脳挫傷とも)で死亡するという痛ましい事件が起こっている。

注.1 大型の古墳の周囲に付随するように同時期に造られた小型の古墳。これらには、中心となる大型の古墳の被葬者の親族や臣下が埋葬されたり、被葬者のための副葬品が埋納された。
注.2 大阪府南河内郡太子町。山田上ノ山古墳。

2022/07/06 加筆再編集






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