林崎掘割渠記碑

林崎掘割渠記碑
明石市民の水がめ、明石市水道部の野々池貯水池の北西角に市指定文化財、林崎掘割渠記碑(はやしざきほりわりきょきひ)がひっそりと建っている。
高さ236センチメートル、幅97センチメートル、台座からの高さ296センチメートル。
この碑は水路(林崎掘割)掘削工事を後世に伝えるとともに水争いが生じないことを願い、和坂村の伊藤治兵衛、鳥羽村の岸本清右衛門、鳥羽新田村の岩佐三右衛門ら庄屋十名により、元文4年(1739)12月、野々池西北端に建てられた。
撰文は明石藩の儒学者梁田蛻巖(やなだぜいがん)に、書は田原何龍(たはらかりゅう)によるものである。

この石碑の辺りに「お化け」が出るという話があるが、それ以上の事は分からない。
一口に「お化け」と言ってもその範囲は広く、妖怪変化や怪物もあれば幽霊も考えられる。私の勝手な想像だが、ここで言う「お化け」は幽霊ではないだろうかと思われる。
よく言う「霊は水辺に集まりやすい」という話の類が関係しているのか、或いは過去に誰かが亡くなる様な事故でもあったのだろうか。

以前は石碑の周辺は今の様に整備はされておらず、玉垣に囲まれた石碑がひっそりと建っているだけで、周囲は草が伸び放題で随分と寂しい所だった。『林崎村郷土誌』(大正8年、金井作次郎 編、林崎村 刊)には「六郷及林崎渠碑」として田圃?と草地が広がる中、疎水の傍らに玉垣に囲まれた石碑と一本松の写真が載せられている。


説明板より

明石市指定文化財 (昭和四十八年度)

史跡「林崎掘割渠記碑(はやしざきほりわりきょきひ)」

一、明暦三年(一六五七)旱魃(かんばつ)で苦しんでいた林崎地方の村々(和坂(かにがさか)、鳥羽、林、東松江、西松江、藤江)が相談し、明石川の上流から野々池まで掘割をつくり、灌漑用の水を確保した。

一、元文四年(一七三九)十二月、この掘割工事の経緯(いきさつ)を長く後世に伝えるため、撰文を明石藩の儒学者梁田蛻巖(やなだぜいがん)に、書を田原何龍(たはらかりゅう)に依頼し碑を建立した。

一、毎年四月十八日、この碑の前で「掘割祭」が行なわれ、地元の水利関係者、小学生児童が参加し、先人の偉業をたたえている。

明石市教育委員会



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