引原ダム
(音水湖)

令和元年(2019)3月23日、宍粟市の引原ダムで完成60周年を記念する式典が執り行われた。
引原ダムは、昭和16年(1941)に工事を開始したが、戦後の不況による影響で約10年間工事を中断。工事遂行は不可能と思われていたが、10年後の昭和26年(1951)、揖保川総合開発事業として建設が再開され、総事業費18億円をかけて昭和33年(1958)3月ダムは完成した。

ダム建設にあたっては、波賀町北部の旧奥谷村最大の集落、引原集落(奥谷村大字引原)を中心とした120戸余、400数人の民家と百ヘクタール近い田畑、宅地、山林が水没することとなり、公共の利益となるならばと住民の大半は住み慣れた土地を後にして、龍野市(現 たつの市)、姫路市に移転していった。
完成後、ダムは洪水調節、発電、工業用水および灌漑用水確保の大きな四つの目的を担い、播磨臨海部に工業用水を供給、高度成長を支えてきた。

前置きはこれぐらいにして、本題に入るとしよう。
日本各地のダム湖には、自殺にはじまり、噂の域を出ないものから実際に世間を騒がせたような死体遺棄事件まで、その手の話が必ずと言っていいほど存在する。それゆえ各地のダム湖の多くが心霊スポットとして扱われているように思う。
ここ引原ダムもそのひとつで、自殺の名所であるとか、死体遺棄事件があったという話がある。
深夜にこの付近を通ると、悪寒を感じたり、気分が悪くなったという人もいると聞く。
水没した集落は斜面に沿って段々畑のように家や田畑があったので、渇水などでダム湖の水位が下がると、比較的早い時期から周囲の土地が露出するらしく、そこで水没した車の中から白骨化した遺体が発見されたり、ドラム缶に詰められた遺体が発見されることがあるという。これらの中には暴力団関係者の遺体もあったという噂もあるが真偽のほどは定かではない。
具体的な話のひとつとして、殺害された女子高生がドラム缶にコンクリート詰めにされ、ダム湖(音水湖)西岸を走る道路から湖に遺棄されたという話がある。ショッキングな事件だがいつ頃の事件なのか等は定かでなく、色々と調べてみたが事件を裏付けるような資料を見付けることは出来なかった。

日没後に湖畔を通ると、水面から顔を半分だけ出してこちらを凝視する霊の姿が見られるという。
さらには、ダム湖周辺には女性の幽霊が出るという噂がある。
ワンピースを着た女性の幽霊が現れる、ダム湖の周囲を走る道路を車で走っていると首の無い女性が車と並走するように追い掛けてくる、といった話がある。また、どのような曰く因縁があるのかは分からないが、二人組の女性の幽霊が現れるという話もある。
晴天の日などは水没している民家などが水面下に透けて見えるといい、水没した民家の中から人が出てくるのを見たという話もある。(話の雰囲気からしてダイバーや遊泳ではないと思われる。)
音水湖(引原ダムのダム湖)の北東、ダムと対面するように架かるカラウコ大橋には深夜、子供の幽霊が現れるという話もある。
余談になるが、カラウコ大橋という変わった名前はここに残る「唐ッ湖」という地名に由来するものだという。その昔この地に「唐ッ湖」と呼ばれる湖があり、それが地名として残ったものと伝えられている。

引原ダムの本当の恐怖は、音水湖ではなくその裏山だという話を目にしたが、詳しい事については触れられていなかった。

余談だが、音水湖の最北部に位置する波賀町鹿伏には平家の落人伝説が伝わっている。

ダム堰堤西岸には記念碑が建っており、そこにはダム建設時の兵庫県知事であった坂本勝氏(故人)による「すすむ世の ためとてあわれ さざなみの そこに消えぬる 引原の里」 の句が刻まれている。



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