松原刑場跡
(平福藩刑場跡)

処刑場跡に立つ六地蔵
平福の町の南端、金倉橋の西側はかつて美しい松並木があり、平福の松原と呼ばれていた。
ここは江戸時代の平福藩の刑場跡と伝え、「南無阿弥陀仏」と刻まれた供養碑と六地蔵がひっそりと佇んでいる。
供養碑には元禄9年(1696)の銘があり、六地蔵も同じ時期に建立されたものと思われる。
供養碑、六地蔵は処刑された人々の追善供養のため村人によって建立されたものという。

元文5年(1740)6月、百姓一揆の首謀者として牛右衛門(うしえもん)がここで処刑されている。
江戸時代中期の元文3年(1738)当地方は大凶作に見舞われた。時の領主松平河内守康年に年貢の減免を申し入れるも聞き入れられなかった。翌年3月、平福領内に百姓一揆が起こり「天狗状」なるものを領内十九ヶ村に回し、強訴に及ばんと計画していた最中、代官所の役人の知る所となり、正吉村(まさよしむら)(注.1)の百姓、牛右衛門(うしえもん)が首謀者として囚われ、元文5年(1740)六月ここ平福金倉橋袂で処刑された。時に牛右衛門四十一歳であった。

また、ここは剣豪宮本武蔵の最初の決闘の地と伝える。
武蔵十三歳の時のことである。神道無念流(新当流)の槍の使い手、有馬喜兵衛がここ平福の松原に次の様な高札(こうさつ)を立てていた。
「何人(なんびと)たりとも望みしだい手合せいたすべし。われこそ日下無双(ひのしたむそう)兵法者なり」
これを見た武蔵は有馬喜兵衛に勝負を挑む。果たして武蔵は一刀のもと有馬喜兵衛を倒したといわれる。
ここから武蔵は諸国修行の旅に出たという。

注.1 現在の兵庫県佐用郡佐用町大字延吉。明治14年(1881)に平福村から旧正吉村と旧友延村が延吉村として分村して成立。明治22年(1889)平福村大字延吉となり、昭和3年(1928)平福町、昭和30年に佐用町大字延吉となる。


2021/06/03 加筆再編集。






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