湖畔の鳥居 付 首地蔵、姫ヶ淵

雑草に埋もれた鳥居 知明湖(一庫ダム)の湖周を走る道路に架かる桐山三号橋の南詰、車道から山間に少し入った旧道沿いに雑草に埋もれた石造りの鳥居が見える。
鳥居の前には石燈篭の残欠らしきものと大き目の岩が二つほどあるだけで、他には何も見当たらない。

噂ではかつてここに神社があり、一庫ダムが建設されるまでは自殺の名所だったいう話がある。
ダム建設工事に伴い神社は無くなり(移設したとも、廃社になったともいう)、鳥居のみがここに残った。
やがて訪れる人もいなくなったこの神社跡(と言われる場所)は、いつしか成仏できない霊達の溜まり場になっているという噂が一部の人達の間で実しやかに囁かれるようになった。
過去、ここに肝試しに訪れた人が頭部から血を流し死んでいたという事件が実際にあったらしく、当時新聞にも報じられたとも聞く。新聞では事故死として扱われたが、実際はこれも霊の仕業だという声もあったらしい。
また、近傍の橋からの飛び降り自殺やトンネルでの幽霊目撃など一庫ダム周辺で起こる怪現象はここに起因しているとまで言われている。
実は神社は取り壊されること無くひっそりと山の奥に廃社となり残り、そこから霊気を放っているのだという。
それゆえ、この神社を実際に見た者は死ぬという噂まで耳にした。

この鳥居の奥に祀られていた神社とはどのような神社だったのかについて少し聞いた事を書くと、一庫ダムのそばに塩川国満の居城一庫城(山下城、龍尾城、塩川城、獅子山城とも)があったのだが、天正12年(1584)、隣領能勢氏との所領争いが原因で豊臣秀吉の逆鱗に触れ池田輝政(或いは片桐且元)勢に攻められ落城した。
この時、城主塩川国満は自刃し一庫城は開城、姫や侍女達は猪名川上流の大路次川に身を投げた。
その城主塩川国満の霊を弔うために建立されたのがこの神社で、未だその無念の思いが彷徨っているのだという。
余談だが、塩川国満の首級はかつての一庫城大手門付近に葬られ、今は首地蔵が建立されている。
また、姫達が身を投げた場所は「姫ヶ淵」と呼ばれていたが、ダム建設に伴い現在は(一庫ダムの)湖底に水没している。

ここまでが私が聞いたり調べたりした鳥居にまつわる話である。
推敲しながらもなかなか掲載できずに過していると、昨年(2009)の11月にF様より貴重な情報のご提供を戴いた。
F様からの情報をベースに推敲後に私が調べて知った事実を以下に纏めさせてもらうことにする。

金高稲荷神社 鳥居のある背後の山は桐山と言い、かつては桐山銅山という銅山だった。
今も鳥居から背後の山に登ると、「間歩(まぶ、採掘のための坑道)跡」や「ズリ(製錬後の不純物)捨て場」が見受けられるという。
そして、建立の時期は定かでは無いが銅山の繁栄と安全を願いこの山に「金高稲荷神社」が祀られていた。
金高稲荷という名前から察するに、想像だが京都伏見稲荷大社から分霊されたものと思われる。
「金高」という名称は、金が高く積もる、つまり財に恵まれるという願いが込められているという。
そして、この鳥居こそが金高稲荷神社への参道入口だったらしい。
かつてこの鳥居は、田尻川に沿って走る県道沿いに建っていたらしいが、ダム建設により水没するため昭和58年(1983)に現在の場所に移設された。
昭和30〜35年(1955〜1960)頃までは地元の方が(鳥居から神社に掛けての参道を?)手入れをされていたらしいが、神社の裏手に当たる保之谷地区からの方が近い事もあり、いつしか鳥居だけが残された様な状態になったという。
鳥居には「明治三十年(1897)二月建立」、「黒川村」などの文字が刻まれている。扁額は不心得者に盗まれて今は無く、傍らには石燈篭の残欠が一基だけぽつりと残っている。

明治時代になり桐山銅山は閉山となり、それに伴い徐々に神社へ参詣する人も減り、いつしか荒廃していった。
そこで、明治三十年(1897)に保之谷地区の方々が現在の地に移設したといわれる。
上棟の木札には明治十三年(1880)に近郊の村々から寄進を受けたことが記されている。
以前はご近所の方が手入れをされていた様だが今は手入れをされる方も居ないのか傷みが目立つようになっている。

今は新光風台(大阪府豊能郡豊能町新光風台)方面からの参詣ルートがメインらしいが、それとて雑木や雑草に埋もれ訪れるのは困難だという。

新光風台からのアプローチ云々は現地を訪れた後で知ったことであったし、何より本来の目的は鳥居の向こう(奥)には何があるのか、神社は存在するのかというのが探訪の目的だったので、鳥居からアプローチした。

雑草と倒木に行く手を阻まれながら斜面を登り続けると、尾根の端に二つ並んだ小堂を見つける。
向かって左側の方が三坪ほどの大きさで、中に小祠がお祀りされていた。
その右隣が半坪ほどの稲荷社だった。
傍らには小さな手水鉢と倒壊した手水舎の屋根らしきものがあった。
ここが移設された金高稲荷神社だった。






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