石守廃寺

石守廃寺遺跡と説明板
兵庫県加古川市に石守廃寺を訪ねた。
『兵庫の怪談』(昭和64年、有井 基 著、神文書院 刊)によると、この石守廃寺の塔心礎(層塔の中心となる柱の土台となる石)を動かしたタタリで人が亡くなっているという話を読んだからだった。
石守廃寺(遺跡)とは、 奈良時代前期(八世紀初頭)の寺院跡で、昭和58年(1983)、同59年(1984)に行われた発掘調査により、金堂、塔の基壇、中門跡が発見され、西条廃寺(加古川市西条山手)と同様に法隆寺と同じ伽藍配置を持つ寺院であったことが確認されている。
発掘調査の時に出土した瓦、風鐸、水煙片等は現在加古川市総合文化センター博物館に展示されている。

前出『兵庫の怪談』によると、

「石を動かしたタタリといえば、加古川市神野町石守の、石守廃寺遺跡にある塔心礎にも因縁ばなしがある。
心柱をはめ込む型式のこの心礎は孔径六十一センチ。何層塔だったかは不明だが、塔高約二十四・四メートル程度だった計算されている。心礎は発見された時、現在位置の近くで、表面を二十センチほど露出した姿で土中に埋まっていた。だが、昭和八年、掘り出され、付近にある妙見堂の前庭に移された。
ところが、間もなく妙見堂の斎主だった厚海儀一さんが病死したので、遺族たちは「きっと、永年にわたって正念(霊・魂)のこもっていた塔心礎を動かしたタタリにちがいない」と。昭和十一年六月、もとあったところに戻した。さらに昭和二十年、妙見講の信者たちが集まって、心礎の上に供養塔を建て、奉祀している。」

と書かれている。

石守廃寺を探しはじめて2時間以上が経過したであろうか、高かった太陽も少しずつ西に傾こうとしていた。
何度か交番を訪れるも巡回中で不在。ようやく巡回から帰ってきた所を見計らい訪ねてみたのだが、二年ほど前にこの交番に赴任してきたとの事で遺跡の所在まではご存知無く、地図を広げて探して頂いたのだが手掛かりは得られなかった。
半ば諦めながら交番を出て車に戻ろうとした時、正面から一人のご婦人が歩いてくる。
ダメでもともとという気持ちで訪ねてみると、なんと探している石守廃寺はすぐそばだと教えてくれた。しかも、探していて何度となくその前を知らずに通過しているのだ。
早速教えてもらった場所へと向うが、いくら見渡してもそれらしいものは見当たらない。説明によると小さな説明板が立っていると教えてもらったのだが、小さな畑と建設会社しかない。困りながら辺りを歩いていると、一人の年配の男性が居られたので再び訪ねてみる事にした。
石守廃寺塔心礎 するとその男性が言うには、建設会社が建っているあたりを指差しながら、建設会社の建っている一帯がかつての石守廃寺の跡なのだと教えてくれた。
そこは建設会社の建物と資材置き場になっており、往時を偲ぶ事はおろか、そこが石守廃寺(遺跡)だと言われても目の前の現実を素直には受け入れられない程の変貌だった。
件の男性は丁寧に私をそこまで案内してくださった。その男性の指差す所を見ると、上り坂になった道路の数十メートル下、一段下がった平地の壁際に工事用の資材に埋もれて、加古川市教育委員会の立てた「石守廃寺」の説明板があった。
男性の話によると、建設会社の建設工事に伴いかつてここにあった塔心礎と供養塔はすぐ近くの寶塔寺境内に移され保存されているとの事だった。
男性にお礼を述べると、資材に埋もれた説明板を後に、早速教えてもらった寶塔寺へと向う。
裏参道と書かれた竹林の中の道を少しばかり進むと、水撒きをされている女性が居られたので訪ねてみた。
どうもこのお寺の方だったようで、またしても親切に塔心礎まで案内して戴く事となった。
本堂から少し離れた竹林の中、正方形に築かれた土壇中心に探していた塔心礎はあった。塔心礎を中心に周囲四方にも小さな礎石が配置され、土壇一面に綺麗に芝生が敷き詰められていた。昭和20年(1945)に建てられた供養塔も土壇の下に移されていた。

動かすとタタリがある―そんな因縁めいた話のあるこの塔心礎だが、竹林に囲まれ静かに佇む塔心礎を見ていると、ようやく安息の地を見つけたようにさえ思えた。






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