J山外国人住宅廃墟群 附 カマニィタン
(ヘルハウス、蝋人形の館)

現在は造成され跡形も無い
兵庫県に通称ジェームス山と呼ばれる場所がる。
現在は大型店舗などが相次いで建設され賑わっているが、そこから少し外れた所に、通称「外人部落」もしくは「外人村」(※不適切な表現だが当時の時代背景を鑑み、記録の正確さを重視し当時の呼称そのままを表記した)と呼ばれる一角があった。否、厳密には往時ほどの広さは無くなったものの今もその地区は存在する。
その歴史は古く、昭和7年(1932)、英国カメロン商会(A.Cameron & Co.)のジェームス氏(Ernest William James , 1889 - 1952)がこの辺りの丘陵地を開拓して50軒の外国人用賃貸住宅を建てた事に始まる。昭和29年(1954)、ジェームス氏の没後、サ○ヨー電機の社長がこのジェームス氏の土地と賃貸住宅を買い取り、現在は系列会社が外国人のみを対象として賃貸契約を結んでいる。
これが、所謂外人部落または外人村と呼ばれるものである。
それから数十年の月日が経ち、やがてこれらの中には住む人が居なくなり廃屋となった住宅も少なくなく、手入れする者も無く荒れ放題となったいくつもの外国人住宅(洋館)が無残な姿を晒していた。
いつの頃からその様な噂が囁かれ出したのかは定かではないが、この外国人住宅の廃墟郡は一部では「蝋人形の館」などと呼ばれていたようで、興味半分でこの廃洋館に忍び込んだ子供が全身血塗れの外国人の幽霊を見たとか、黒い服を着た背の高い男が目の前でスッと消えたなど、おのずと目撃されるのも外国人の幽霊だった。
廃墟郡の中には、内部が真っ赤に塗られた教会(最初からそのような内装だったのか、誰かがイタズラで塗ったのかは不明)が在り、丘陵頂上付近にあった白い廃洋館は「ヘルハウス」(注1.)と呼ばれていた。
昭和60年代(1985~1988)の終わり頃、友人数名と従妹と共にヘルハウスに入ったことがあった。
残念なことに全体的に白を基調とした洋風の普通の住宅ということと、酷く荒らされていて至る所に落書きがされていた事ぐらいしか憶えていない。

幽霊の話とは少し違うが、この界隈で有名な話として「カマニィタン」という話があった。かなり昔の話なので今その話を知っている人も少なく、真偽の程を確かめる術もないが、一種の都市伝説のようにもとれる話である。
多少のバリエーションがあるようだがその話とは概ねこのようなものである…
ある外国人の兄弟がこの外国人住宅に住んでいた。兄弟は近くの小学校に通っていたが、外国人ということから弟は日頃からいじめられていた。
ある大雨の日のこと、警報が発令されたため授業が中止となり、生徒たちは雨の中帰宅することとなった。その帰り道、件の(外国人兄弟の)弟はいじめっ子達にカバンを取り上げられなかなか返してもらえずにいた。そして、ふざけているうちにそのカバンが増水した溝に落ちてしまった。
慌てた弟はカバンを取ろうとして誤って増水した溝に転落、そのまま雨水管まで流され亡くなってしまった。
以来、弟を亡くした兄は草刈り鎌をいつも持ち歩くようになり、弟を殺したいじめっ子達を追い回すようになったという。その時、この兄が「Come on! Return!」と叫んでいた事から、この兄の事を「カマニィタン」と呼ぶようになったとか、鎌を持った兄さんだから「カマニィタン」(鎌兄ィタン)と呼ぶようになったといわれる。
しかし、流石にこの話が広まると警察も動き出したようで、事情を聞くためにこの兄は警察に呼ばれることとなった。
そんな事があってこの一家はここから去っていたという。そのかつての住居もその廃墟群の中の一つだという事だ。

余談になるが、この地域の入口に近い所には、洋館群とは不釣合いな不動明王の石仏や稲荷神社等が祀られている。これは、九世紀頃にこの丘陵にあったといわれる古代寺院「千坊ケ谷廃寺」に関連する物ではないかと言われている。

20年前後が経ったある日、かつて廃洋館群があった辺りを訪れてみた。
そこには大きなマンションが建設され、丘陵頂上付近にあったヘルハウスも取り壊され、大規模な整地が行われ広大な更地となっていた。
現存する洋館のある地区は私有地で、現在も百数十人が住まれており関係者以外立ち入り禁止となっているのでみだりに立ち入ったりしないようにくれぐれも注意戴きたい。

注1. ヘルハウス
リチャード・マシスン原作のホラー小説「地獄の家」(Hell House)、あるいはそれを原作とした1973年制作のイギリスのホラー映画「ヘルハウス」(原題:The Legend of Hell House)のタイトルから付けられたと思われる。






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