仕置き場跡
(常厳寺門前 地蔵堂)

地蔵堂 常厳寺門前の地蔵堂が建っている場所は古地図に「仕置き場」(処刑場)と記されており、かつてここは処刑場であったという。

寺伝によると、常厳寺の創建は戦国大名赤松則村が居城三木城を築いた時、守護仏を祀る寺として当寺を建立。聖観音を安置したことに始まると言われている。同寺の墓地には赤松則村の墓所がある。
「曹洞宗 君峰山 常厳寺」と刻まれた門柱の向こうに「温故知新」の石碑。背面には前述の赤松則村の開基による旨が記されている。玉砂利の中を石畳が山門に続き、右に漆喰の塀、左には低い生垣が続いている。生垣を隔てて西側は広い駐車場になっている。
辺りを見回しても地蔵堂らしきものは見当たらず、境内にお邪魔するもやはり地蔵堂らしきものを見付ける事は出来なかった。お寺の方にお伺いしようかと思ったのだが、生憎ご不在の様子だったので後日また出直す事にしてJ寺を後にした。

帰宅後に色々と調べてみたのだが地蔵堂に関する情報が得られない。もしかするとお寺の隣にある広い駐車場の辺りに在ったのだろうかと少し不安になる。
手掛かりが得られないまま数日が経ったある日のこと、仕事をしていると突然頭の中にインスピレーションの様な物が舞い降りてきた。
門前と表現してあるため山門のすぐ前とばかり思い込んでいたのだが、もしかすると道を挟んだ向かいという事ではないだろうかと思ったのだ。早速Googleストリートビューで確認。思った通り、兵庫県道38号三木三田線を挟んで常厳寺の向かいに地蔵堂らしきものが確認出来る。山門の前とあったが、私の感覚で言わせてもらうなら山門の向かいと表現した方がピンとくる。
それはさておき、便利な世の中になったものだと痛感する。

地蔵堂裏の塀 後日改めて地蔵堂を訪れる。
交通量の多い県道に面して、民家と運送会社の給油所に挟まれるようにして小さな空間がある。砂利の敷かれた広場の奥、塀に張り付くように地蔵堂が建っている。ここが探していた「仕置き場」で間違いないと思う。
地蔵堂の中には如意輪観音像を中心に地蔵菩薩像が祀られていた。

近くにおられた方に地蔵堂の謂れなどご存じないかそれとなく尋ねてみたが、特に仕置き場にまつわる話などは聞くことが出来なかった。ただ、地蔵堂の裏の塀(ブロック塀)に猫の様な染みが浮き出たという話があったらしく、見に来た人が有ったという事を聞いた。
しかし、残念ながら教えてくれたその方も話に聞いたというだけで、実際に見られた訳ではないので詳しい事は分からないということだった。
地蔵堂を囲むように設けられたブロック塀を入念に見て回るが、それらしいものは見当たらなかった。強いて言えば、地蔵堂の奥、如意輪観音像や地蔵菩薩像の背後に大きな雨染みのようなものが有ることはあったが、これがそのブロック塀に浮き出た猫だったのかについて分からない。

後日、思うところあって再び地蔵堂を訪れる。
「地蔵堂の裏の塀」とは、確かに地蔵堂の背後に設けられた塀で間違いないと思うが、もしかすると地蔵堂の背後に立つ塀のその裏側という事だったのではないかと改めて思ったのである。
しかし、そこは隣の民家の庭の一部となっており、地蔵堂のブロック塀と背中合せで民家の塀が作られ、確認する事は出来なかった。

更に後で分かった事だが、猫の様な染みが浮き出ていたという場所は地蔵堂背後の塀の向かって右側だったらしい。三度ここを訪れて確認したが、消えたのか、更に染みが増えて崩れてしまったのか、それらしき染みは見付けることが出来なかった。

余談だが、常厳寺の辺りは三木城の支城、宿原(しゅくはら)城の跡と伝え、赤松氏の一族、別所長治が一帯を統治した頃、城主別所長治の従兄、別所志摩守忠治が宿原城に拠っていたと伝えられる。



2021/07/20 加筆再編集。






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