狩 口 台
(事実誤認の一例)

昭和40年代初頭ごろより県を中心に開発されたニュータウンの一角に狩口台がある。
「狩口台」という名前は、かつてここに処刑場があった事に由来する地名であるという話がネットを中心にまことしやかに語られている。
朝霧駅から明舞団地方面に向かうタクシーの運転手から、狩口台の辺りには昔処刑場があって、その所為で今も幽霊が出るという話を聞かされたという人も割といたという。
朝霧駅前に在った明石藩の「畑山刑場」の誤認なのか、お客さんを揶揄っていたのかは分からない。

狩口台という名前は、大蔵谷にあった旧字「狩口」(明石市大蔵谷字狩口、現 同市朝霧南町)から命名されている。
第14代仲哀天皇の時代のこと。大中姫命(大中津比売命)との間に生まれた二人の皇子(後述の品陀和気命の異母兄)、麛(注.1)坂皇子(かごさかのみこ、香坂王)、忍熊皇子(おしくまのみこ)は、神功皇后の御子(品陀和気命(ほむだわけのみこと、後の第15代応神天皇)が皇位に就くことを良しとせず、三韓征伐の帰途にある神功皇后を迎え撃つべく、今の明石市と神戸市の境界を流れる狩口川の上流の台地「菟餓野」(とがの)(注.2)で反乱の成否を占う祈狩(誓狩、うけいがり)、或いは軍事訓練を行っていたという伝説がある。その(祈狩の)狩場の入口であったことから狩口の地名が付いたといわれている。
(この伝説に由来する地名として狩口(狩口台)の他に、矢元(矢元台公園)、矢谷(天谷、現 舞子台緑地公園)等がある。)
この祈狩で、麛坂皇子は櫟(くぬぎ)の木に登っているところを巨大な猪に襲われ、食い殺されたとも、突き殺されたとも伝える。
この後、残された忍熊皇子は神功皇后襲撃を企てるも、神功皇后らの軍勢に追われ琵琶湖にて身を投げた。

江戸時代末期には明石藩がここに「狩口矢場」という演習場を設け、家臣荻野六兵衛を火術指南役として藩主松平直明らが小銃や大砲の演習や狩りを行っていた。荻野六兵衛の屋敷は現在のJR朝霧駅の東側に在ったという。

狩口台の南西に明石藩の「畑山刑場」が存在した事や、狩口台の「狩」の字が「首狩り」を連想させるといったような事が相俟ってこの様な話が出来上がったのではないだろうかと思う。
以上のことを踏まえ、狩口台に処刑場が無かったという事はお分かり頂けたと思う。
心霊スポットではない場所の紹介となったが、事実誤認の一例としてここに取り上げた。

注.1 麛 :「鹿」の下に、左側に「弓」、右側に「耳」
ご利用のPCやブラウザにより、漢字が正常に表示されない場合がございます。
注.2 明確な比定地は定かではないが、現在の神戸市垂水区狩口台、明石市南朝霧町、同市松が丘周辺とする説、摂津国八田部郡の菟餓野(現在の兵庫県神戸市兵庫区夢野町付近)とする説、大阪府大阪市北区兎我野町とする説などがある。



2022/07/12 加筆再編集。






本ページはフレーム構成となっております。
左端にメニューが表示されていない場合はこちらからどうぞ。