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昭和40年代初頭ごろより県を中心に開発されたニュータウンの一角に狩口台がある。 「狩口台」という名前は、かつてここに処刑場があった事に由来する地名であるという話がネットを中心にまことしやかに語られている。 意図的な曲解ではなく誤認から生じたものとは思われるが、それらによると「狩口」は「狩首」が変化したものといった話や、「口を狩る」そのままの意味で、かつて存在していた「口減らし」という言葉が表す様に「口」は人間の口を表し、食い扶持(食費、食い分)あるいは人数の意味で、「口を狩る」すなわち処刑の意味であるといった付会までが散見される。 また、明石藩の畑山刑場が西国街道に面した台地の上にあったことから、斬首した後の胴体をここ(高台)から明石の海に捨てたといった話まで出来上がっている。 一般的には首を刎ねられた後の胴体はそのままにしておくと腐敗し疫病等の発生が懸念されることもあり、衣服や持ち物を剥ぎ取られた後、死穢の処理を命ぜられている一部の村人たちにより罪人といえども埋葬されていた。 全くの余談になるが、江戸時代に幕府による禁教令が出されキリシタンの弾圧が激しかった当時、キリシタンは妖術を用いて首と胴体を繋げて生き返ると信じられていたため、首と胴体はそれぞれ別の場所に埋葬されていた。 朝霧駅から明舞団地方面に向かうタクシーの運転手から、狩口台の辺りには昔処刑場があって、その所為で今も幽霊が出るという話を聞かされたという人も割といたという。 朝霧駅前に在った明石藩の「畑山刑場」の誤認なのか、お客さんをからかったのかは分からない。
狩口台という名前は、大蔵谷にあった旧字「狩口」(明石市大蔵谷字狩口、現 同市朝霧南町)から命名されている。 江戸時代末期には明石藩がここに「狩口矢場」という演習場を設け、家臣荻野六兵衛を火術指南役として藩主松平直明らが小銃や大砲の演習や狩りを行っていた。荻野六兵衛の屋敷は現在のJR朝霧駅の東側に在ったという。
狩口台の南西に明石藩の「畑山刑場」が存在した事や、狩口台の「狩」の字が「首狩り」を連想させるといったような事が相俟ってこの様な話が出来上がったのではないだろうかと思う。(同様の事例に、西宮市の「石刎町」(いしばねちょう)がある。「刎(は)ねる」という字が、首を「刎ねる」を連想させるため。(注.3))
2022/07/12 加筆再編集 2025/01/19 加筆再編集 2025/01/21 「注.3」を追記
注.1 麛 :「鹿」の下に、左側に「弓」、右側に「耳」 |