景福寺山・ホテル ロンドン

松平明矩霊廟
世界文化遺産姫路城の西方に高さ51メートル程の景福寺山という小丘がある。
『播磨國風土記』に登場する十四の丘の一つ「船丘」の比定地とされ、西岸寺山(せいがんじやま)、孝顕寺山(こうけんじやま)、嵐山(あらしやま)、郡鷺山(むれさぎやま)と幾度と無く名前を変えるが、山麓の寺院が景福寺となってからは景福寺山に落ち着いた。

姫路城を指呼の間に望む景福寺山は男山(姫路城の北西にある標高57.5メートルの小丘)と共に古くより防衛の要と考えられ、戦国時代、土豪渋谷二郎太夫長秀がここに嵐山城を築きこれに拠っていた。
永享12年(1440)、下総国結城城主、結城氏朝が前管領足利持氏の遺児、春王丸、安王丸を擁立して挙兵。これを知った足利義教は赤松満祐に結城氏討伐を命じた。勅命を受けた赤松満祐は播磨の豪族に檄を飛ばすが、嵐山城主渋谷長秀、男山構の山野新藤次成明、那胡山構の那胡七十郎頼三、水原山構(秩父山構)の山之井刑部二郎一光ら数名の土豪がこれに従わず、閉戸追放となっている。
嘉吉の乱(1441)で赤松満祐が山名持豊に討たれると、その後、山名持豊(宗全)の家臣、雨夜兵庫助氏武がここに拠っていた様である(高栖山城)。
余談だが、雨夜(あまや)という姓は、戦国時代、雨の夜でも消えない松明(たいまつ)を考案した功により武田信玄より賜ったと伝える。
慶応4年(1868)、京都鳥羽伏見で朝廷と幕府の戦いが起ると、姫路藩が幕府側に属したことから岡山藩がここ景福寺山と男山に兵を配し、姫路城を砲撃して開城させるなど歴史的に重要な場所であった。

景福寺山は全体の七割を墓地が占めている。江戸時代から続く古い墓地で、古いものでは天保年間(1644~1647)の銘の墓石から、姫路藩士、江戸期の豪商、初代青野ヶ原捕虜収容所所長の墓碑などが山中に散在している。
麓にはつい最近(2005年6月当時)まで火事で焼けたラブホテル「ロンドン」の廃墟があった。
火災の原因は宿泊客の火の不始末とも、不審火或いは放火ともいわれ、この時の火災で宿泊客5~6名が亡くなったという。火災の後、経営者の妻が自殺した、或いは経営者一家は離散、その後全員が病死、事故死などで相次いで亡くなったという噂もあるが真偽のほどは定かではない。
全焼は免れたもののホテルとして営業を再開するにはあまりにも被害が大きく、焼けたままの無残な姿で放置されていた。
解体には多額の費用が掛かる(注.1)という問題もさることながら、解体作業中に事故が発生、後述するがこのホテルは墓地を造成して建てられたという話があり、工事関係者らがタタリを恐れ長い間工事が間中断されていたという話もある。
廃墟となったホテル ロンドンは地元では心霊スポットとして知られる存在となった。火災で亡くなった人の幽霊がホテルの中を彷徨っているらしく、肝試しにきた若者たちがここで何度となく幽霊を見たという。また、廃墟となったホテルから覗いている人影を見たという話や、中で写真を撮ったら霊が写っていたという話等がある。更には、肝試し等で面白半分にここを訪れると後で必ず不幸な出来事が起こるとも言われていた。
姫路の心霊スポットとして有名な場所であったことからテレビ番組でも取り上げられたという(詳細不明)。
真偽のほどは定かではないが(事実確認出来なかった)、昭和61年(1986)頃、ここに肝試しに来ていた女の子が行方不明になったまま今も発見されていないという話もある。
廃墟となったホテルにはいつしか複数人のホームレスが住むようになっていたようで、これらを幽霊と見誤ったのではないかという話もある。

景福寺山遠望 ホテル ロンドンには、実は火事になる以前から奇妙な噂があった。
ホテルが建っている場所にはもともと多数の武士の無縁仏が眠る墓地が在ったという。ホテル建設以前、何度となく土地開発業者がここを住宅分譲地として造成しようとした事があったそうだが、工事に係わった人達(建設作業員ともいう)が相次いで亡くなるという事が起こり、以来タタリを恐れて誰もここの造成工事には携わるものがいなくなったといわれている曰く付きの場所であったという。
その後、ここにホテルが建設されることとなるのだが、あろう事かそこにあった墓石もろともそのまま造成し、その上にホテルを建設したといわれている。それ故、このホテルが火災に遭った時、人々はタタリだと口々に噂したという。 墓石を移動させずに造成したとか、造成中に死亡事故があったという話の真偽のほどは確認が取れていないが、墓地を造成してホテルを建設した事は事実である可能性が高いようである。そのため、(真偽のほどは別にして)建設作業中に作業員が亡くなったとか、(営業中の)ホテルに幽霊が出ると言った話が広まり、風評被害もあって経営は悪化、事実上の休業状態となっていたという話もある。一説には、不審火或いは放火で火事になったのはこの休業中の事であたっともいう。
ホテル解体後、開発業者が跡地周辺の造成開発を試みたが、作業員の死亡事故が発生、担当した会社(開発業者?土木建築業者?)は倒産という事が起こり、人々はタタリだと噂したという。

昭和59年(1984)頃だろうか、そんな事など全く知らなかった私は友人を伴いこの小丘に雨夜氏武の足跡(高栖山城)を求めて訪れたことがあった。
その時、偶然この焼け落ちたホテルを目の当たりにしている。
火災云々や心霊スポットと言った話はおろか、そこにホテルが建っている事さえ知らなかった私と友人は不気味だとは思いながらも目の前に現れた廃墟の中を少しばかり見て歩いていたことを覚えている。
外壁が焼け焦げて黒くなった本館と思われる建物(曖昧な記憶だが鉄筋コンクリート造3階建だったと思う)の割れた窓から中を覗くと、辺り一面黒く焼け焦げ、焼け残った部分も酷く荒らされ、壁には無数のラクガキ、窓ガラスなども悉く破壊され、焼け残った別館?と思しき建物も半分以上が崩れ落ちているという有様だった。

景福寺山の山頂を目指し雑草の中、倒れたり傾いたりしたいくつもの墓石の中を進んで行く。訪れる人も居ないのだろう、酷く荒れていた。
山頂には姫路城主松平明矩墓所の大きな五輪塔が佇んでいた。周囲は雑草が生い茂り、廟所を囲む玉垣も石門の扉も悉く倒れ崩れ落ちている光景に一抹の寂しさを感じずにはいられなかった。

ホテル ロンドンは平成15年(2003)頃に解体撤去され、山麓が住宅地として、中腹部分は「景福寺公園」として整備され、展望広場、お花見広場などが設けられている。しかし、この景福寺公園も荒れるに任せ雑草が生い茂っていた。
山頂にある松平明矩墓所も今となっては道が無くなっていて辿ることは出来なかった。
ホテルの解体撤去・整地作業の時、地元業者が嫌がり何処も請け負ってくれなかったため、作業は地元とは関係の無い所の業者に任されたという話もある。
噂によると、跡地に隣接して建つマンションでは武士や着物姿の女性の幽霊が現れるなどの奇現象が起こっているという…

余談だが、ホテル ロンドンの北東550メートルほどに在った「ホテル ロンシ○ン」にも幽霊が出るという噂があった。


2011/04/11 追記
市街地にも係わらず景福寺山が開発されずに残っているのは、開発しようとするとタタリがあるからだと言う話を書いたが、それとは全く逆の理由を聞いたのでここに追記する。

開発に着手できない理由のひとつとして、まず山の大半が景福寺の墓地となっていることが挙げられる。墓地を移転させるのであれば当然景福寺の承諾が必要であり、加えてこれらの墓碑は数も多く何れも古い物が多いため移動が困難な事、更に移転先の代替地の確保などを考えると採算が合わない。
次に、墓地で無い部分の大半は傾斜地で、開発に係るコストとそれによって得られる利益を考えると採算が合わない。また、傾斜地ゆえ土地の境界線が複雑で地権者諸々の問題もあるらしく、それらの理由から景福寺山は開発されずに残されているのだと言う話もある。


注.1 一概には言えないが参考までに。
主な廃墟ホテル(一部例外有り)に掛かった解体工事費。
・旧 高橋館:福島県会津若松市。明治9年(1876)建築。木造、地上3階地下1階。
解体工事費、約3000万円。(旅館「新滝」を経営する株式会社くつろぎが負担した費用)
・旧 ホテル聖:長野県東筑摩郡。鉄筋コンクリート造。地上7階地下1階。
解体工事、整地作業費用、5760万円。(麻績村が負担)
・美和コーポ:滋賀県野洲市。昭和47年(1972)建設。鉄筋コンクリート造。地上3階。
解体工事費、約6000万円。(野洲市が計上した解体実施設計委託料)
・旧 やひこ観光ホテル:新潟県西蒲原郡。昭和42年(1967)建設。鉄筋コンクリート造。地上7階地下1階。
解体工事費、1億1340万円(うち4割の4536万円を国の社会資本整備総合交付金から、残り6804万円は弥彦村の持ち出し)
・旧 ホテル雷屋:山形県鶴岡市。昭和48年(1973)建設。鉄筋コンクリート造。地上7階。
解体工事費約1億8000万円(鶴岡市が計上した予算、解体費のうち約5000万円は国の補助を見込んでいる)
・中城高原ホテル:沖縄県中頭郡。1970年代前半に建設。鉄筋コンクリート造。地上5階。
解体工事費約2億470万円(公園整備事業のため所有権を沖縄県へ渡す、解体は糸満市の照屋土建が請け負う)



2018/03/29 加筆再編集。



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