兵庫夙の処刑場跡(注1.)
(別称 首切り場)

処刑場跡に建つ首切り地蔵 兵庫県のあるJRの踏み切りの傍、台座の上に祀られた小さな地蔵堂がある。
江戸時代、当地方を管轄する町奉行所の処刑場がここにあったと伝え、地蔵尊はその供養のために建立されたものである。

かつてここには大きな川が流れていた。平安時代頃、平清盛が港の大規模な修築工事を行った際この川の流路を替えたと伝え、河口付近のこの辺りには川洲が広がっていた。
古地図には江戸時代にこの川洲の辺りに長吏屋敷(注.2)があったことが記されている。

今から半世紀以上前の事。
かつてこの辺りが川洲であったことから、ある建材店が砂利の採取をするため表土を取り除き掘削を始めた。
作業を開始して間もなく、一人の作業員のツルハシに何かが当たる感触があったそうだ。
この辺りは戦時中に米軍の空襲に遭い今も不発弾が発見されることもある。作業員は用心して慎重にそれを掘り出してみると、それは人間の頭蓋骨であった。
現場は殺人事件かと大騒ぎになり、残りの骨を探すために周辺を掘ってみた。すると不思議な事に頭蓋骨ばかりが出てくるではないか。
(頭部と胴体が切断された骨だったという話もある)
何事かと調べてみると、この土地に古くから住むお婆さんが近くに「首洗い井戸」があったという話をされ、そこからここが江戸時代の処刑場跡だという事が分かった。

そこで、この建材店のご主人と有志がここに地蔵尊を祀り「首切り地蔵」と名付け地蔵盆には毎年供養をするようになったということだった。
時は流れ、いつしか「首切り地蔵」と言う名前は縁起が悪いということでその名前を呼ぶ者も無くなり、ここに処刑場があったことも人々の記憶から忘れ去られた行こうとしている。
ただ、聞いた話では今も有志の方が毎年供養を続けられているという事だった。

注.1 処刑場の名称については、『大江戸暗黒街 八百八町の犯罪と刑罰』(平成17年、重松一義 著、柏書房 刊) の表記を参考とした。

注.2 長吏(ちょうり)という言葉にはいくつかの意味があるが、ここでいう長吏とは中世から近世にかけての日本における身分制度の賎民を意味する。

2015/09/25 加筆再編集。






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