交通事故死者慰霊塔

神崎郡内交通事故物故者 慰霊塔
国道312号線を姫路市内から福崎町方面に進むと、香福橋交差点の北に小山の様な黒い大きな露頭(注.1)が見える。この露頭は頁岩(けつがん)と砂岩を主とする混成岩から出来ている。

旧生野街道は姫路市香寺町溝口の北端で段丘上に上がり、手城山(注.2)の西を北上していた。明治初年(1868)の馬車道の開通以後この道が廃れたため、明治12年(1879)、地域の人たちが資金を集めて手城山の東を回る市川沿いの新道(現在の旧道)を新たに開いた。
現在は車両の通行が禁止され遊歩道となっているが、市川にせり出す手城山の裾を縫うように通るこの道こそが、明治12年に造られた新道(現在の旧道)である。
新道の開通を記念して建てられた「播磨国神西郡手城山開路碑」が香福橋の西詰、旧道と国道312号線の分岐する所に木々に埋もれるようにひっそりと佇んでいる。(右下画像)

播磨国神西郡手城山開路碑 手城山の裾を通る新道(現在の旧道)は地形に沿った形で作られていたため見通しが悪く「魔のカーブ」と呼ばれ、交通事故が後を絶たかった。ガードレールを突き破って市川に転落するという事故も何度か起こっているという。
道路の構造上の問題もあるのだろうが、余りに事故が多発するため、地元では死者が引き寄せてるいるのだという話まで噂された。
そこで、手城山を切り通して今の様な直線に近い道路を造り、交通事故で無くなった方たちの慰霊のため、昭和53年(1978)旧道と国道の中間に、慰霊塔が建立された。
慰霊塔の正面には、「神崎郡内交通事故物故者 慰霊塔 兵庫県知事 坂井時忠書」、水鉢には「福崎交通安全協会 神崎自家用自動車協会 兵庫県ダンプ協会神崎支部 昭和五十三年九月 建立」と刻まれている。また、露頭の上には「交通安全」と書かれた大きな看板が掲げられている。

今もこの山裾や旧道では幽霊を見たという話がいくつかあり、車両通行止めのはずの旧道から急ブレーキの音や車の激しい衝突音や聞こえてくるという。

注.1 野外において地層、岩石が露出している場所
注.2 手城山城址(高橋城址)。『神崎郡誌』には城主は小川幸三藤原秀高とある。天正13年(1585)落城。



本ページはフレーム構成となっております。
左端にメニューが表示されていない場合はこちらからどうぞ。