『播磨国風土記』の賀毛郡起勢里(かものこおり こせのさと)の条に、 「播磨の国の田の村君、百八十の村君ありて、己が村ごとに相い闘いし時、天皇勅して、この村に追い集め、ことごとく斬り殺しき。故に臭江と云う。その血黒く流れき。故に黒川と云う」 (読み下し)というくだりがある。
第十五代応神天皇の時代、播磨の国には小さな村がたくさんあり互いに争っていた。 応神天皇(『播磨国風土記』では品太(ほんだ)天皇と表記)の巡行が行われた時、勅命によってこれらの人々が追い集められ、ことごとく殺されてしまった。 巡行と表現されているが、これは応神天皇が播磨中部を勢力下に収めるために行った掃討作戦と考えられる。 あたり一面に広がる屍の山からは悪臭が立ち込めたため「臭江」(くさえ)、流れ出した血が黒い川のようだったことから「黒川」という地名がここに付けられたという。 この「黒川」が、現在の小野市黒川町の辺りだったと考えられている。
江戸時代、ここに処刑場が在ったという話がある。史書、地誌などを調べているが詳細はついては今のところ定かではない。
※おことわり (2024/08/18 追記) |