オイテケ池

1954年頃の地図に描かれているオイテケ池
令和2年(2020)の10月も終わろうとしていたある日、弊サイトの投稿フォームより黄泉津大神様から「オイテケ池」というお話をご投稿頂いた。
黄泉津大神様によると、ご親戚から尼崎市立小田北中学校創立30周年記念誌『小田北』にこのような話があると教えて頂いたとのことで、その話を私に紹介してくださった。
(以下、ご投稿より引用。)

親戚がその現物を持っており「こういう話、好きだよな?」と紹介され、読む事が出来たのですが、その中には小田北中七不思議の一部として掲載されていました。

その『小田北』よると、当時の1、2回生が六甲山で教師2名と一夜を共に宿泊し百物語的な事をし、先生が代わる代わる話をする中に例の「オイテケ池」の話が出、その他に「南階段の怪」「開かずの扉」と出たらしいです。

尼崎市次屋3丁目の下畔公園の北側に河童伝承の伝わる『オイテケ池』という場所が昔、あったみたいです。
話としては東京の江東区に伝わる『オイテケ堀』と類似しているので端折りますが、尼崎の『オイテケ池』では1954年の1月に痛ましい事件があったらしく、それを契機に埋め立てられたという経緯があるらしいです。

又、事件については親戚が「自分の代の頃にはもう埋め立てられた後で、よくは分からない。ただ1954年に何かがあったとは自分も伝え聞いてるし年代も定まってるのだから、その年に何かがあったのは間違いないだろうな」 と沁々と語ってくれました。

ですが、事件についてネットで軽く調べてみても全然ヒットしないのです。
その頃あった事といえば、市営バス最初のワンマンカーが導入されたぐらいとしか出ず……

(引用ここまで)

黄泉津大神様のご投稿によって本所七不思議、或いは落語などでも知られる「置行堀」(おいてけぼり)と同様の怪異が兵庫にもあると知った私は、居ても立っても居られなくなり片っ端から「オイテケ池」について調べてみようと様々な資料や情報を漁ってみた。
しかし、思うほどの収穫は得られない。
そんな中、平成3年(1991)に発行された『尼崎の伝説』にオイテケ池について書かれているとの情報を得た。
『尼崎の伝説』は、図書館司書をされていた羽間美智子さんという方が平成元年(1989)に尼崎市立北図書館で「尼崎の伝説展」という企画を開催し、同3年(1991)にこの『尼崎の伝説』という手作りの冊子を350部限定で作成、配布したとのことだった。
その後、当時の聞き取り内容を補足したものが尼崎郷土史研究会によって、同会の会報『みちしるべ』の第33号・第34号で特集号「尼崎の伝説」として紹介されたようである。しかし、こちらも尼崎郷土史研究会の会員に配布されたのみであり、いずれも現物を見るには尼崎市内の図書館を回る以外に手は無いと思われる。

それでも僅かに分かった事があるので、それを補足程度に書かせてもらうと、数百年の昔、ここにあった大きな池(オイテケ池)に河童が棲んでいて、夜にこの池の傍を通ると、「オイテケー、オイテケー」と叫ぶ声が聞こえたという。
その声を聞いた者は食べ物などを池の側にある大石の上に置いて行かないと熱病にかかり死んでしまうと言われていた。
人々が困っているのを見た村長が河童を退治したものには褒美を出すと言ったところ、一人の腕に覚えのある武士が河童退治に名乗りを上げた。
武士は池のほとりにある大石の上に食べ物を置いて河童が現れるのを待った。果たして河童が現れ食べ物に手を伸ばしたところを武士は一刀のもとに河童の右手を切り落とした。
悲鳴ともつかない叫び声をあげて河童は池に飛び込み、姿を現すことはなかった。
武士は村長より褒美をもらい村を後にした。

一般的には、この後、河童が切り落とされた手を返してもらいに現れ、手を繋ぐ秘薬があるといって手を返してもらう代わりにその薬を渡したり、調薬の方法を教えたりするという話が各地に伝説として残っているが、ここに伝わる伝説では(同じ河童なのか否かは定かではないが)数年もしないうちにまた現れ、人に害を為したというから何とも後味の悪い話である。

尼崎市公式ホームページではオープンデータとして各種年代の尼崎市の地図を閲覧することができ、その中の「最新尼崎市街地図(1951年)」、「最新尼崎市街地図(1953年)」、「最新尼崎市街地図(1954年頃)」を見ると、小田北中学校のすぐ南に東西100メートル、南北50メートルほどの長方形の池が確認できる。ここがオイテケ池と思われる。

余談だが、東京都足立区の堀切駅(同区区千住曙町)の近くにもかつて千住七不思議の一つとされた「置いてけ堀」という池があり(注.1)
また、埼玉県南埼玉郡宮代町の身代神社(このしろじんじゃ)の脇にある身代池も「置いてけ堀」とも呼ばれ、同様の伝説が残っている(注.2)

画像引用元
「最新尼崎市街地図(1954年頃)」(尼崎市ホームページ掲載)より一部を引用
請求記号:D-4/出版年:昭和29頃/出版者:[出版者不明]/サイズ(縦×横):76×54cm
http://www.archives.city.amagasaki.hyogo.jp/opac/pm_detail.php?tbl=mp&id=30

注.1 ここで魚を釣った時は、釣った魚を三匹逃がすと無事に帰ることができるが、魚を逃がさないままに帰ろうとすると道に迷って帰れなくなったり、釣った魚をすべて取り返されたりするという話が伝わっている。
注.2 魚を釣って帰ろうとすると、魚を返すまで池から「置いてけ、置いてけ」という声が続いたとか、無視して持ち帰った魚を食べた者は家が没落してしまうという話があり、誰もこの池で釣った魚は食べなかったという。



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