大倉山公園

大倉山公園
大倉山公園は神戸市の山手に位置し、標高40メートルほどの小さな丘のほぼ全体が公園となっている。
元々の標高は55.7メートルあったそうだが、ここに公会堂や市庁舎を建設する計画が持ち上がり、その時山頂が削平されたため現在の姿になったという。現在は山頂に野球場などがある。

深夜2時から3時頃、ここで首吊り自殺をした人の幽霊が現れるという話がある。また、下半身のない女性が浮かんでいたといった話や、児童遊園傍のトイレに幽霊が現れるといった話などがある。
パジャマ姿の幽霊が彷徨っているという話もあるが、生身の人間を見誤ったのではないかと思う。
深夜、公園に続く階段の左側(西側)、隣接する仏教会館との間(歩道橋がU字に曲がっている下辺り)に幽霊が立っているといった話、かつてここに古墳が在ったが、それを破壊して公園を造ったために幽霊が現れるようになったといった話、戦時中はここに高射砲陣地や兵舎が置かれ、周辺は空襲で多くの人が亡くなっていることから、辺りには今も霊が彷徨っているといった話もある。

心霊とは関係の無い話だが、大倉山は古来より近世に至るまで何度となく歴史の舞台に登場している。
そもそもこの小丘は、山麓にある寺院の名を取って広嚴寺山、あるいは安養寺山と呼ばれていた。
建武年間(1334-1338)には、湊川の合戦の時に楠木正成がここに陣所(坂本城)を構えた。天正6年(1578)に荒木村重が織田信長に反旗を翻すと、荒木村重の支城である花隈城攻めのために織田家の重臣池田恒興がここに砦を構えた。
明治時代、明治維新の中で御用商人として活躍し一代で財閥(大倉財閥)を築いた大倉喜八郎が、安養寺山の約8000坪の土地を買い取りここに別荘を建設。しかし、喜八郎自身はあまりここに滞在する事は無く、喜八郎と親交のあった伊藤博文がよく滞在していたという。
明治43年(1910)、伊藤博文の銅像を建てること、公園として市民に開放すること、を条件として喜八郎は別荘と土地を神戸市に寄付。
この時、喜八郎の名にちなみここを「大倉山」と呼ぶようになった。
伊藤博文が暗殺された2年後の明治44年(1911)、大倉八郎はここに伊藤博文の銅像を再建(注.1)。しかし、昭和17年(1942)、第二次世界大戦中に銅像本体は金属供出され、現在は大きな台座だけが残っている。
時代は下って、昭和13年(1938)7月に発生した阪神大水害では、家を失った人のためにここに仮設住宅が建てられた。
第二次世界大戦中には、ここに高射砲陣地や兵舎が置かれた。戦後は空襲被災者のための住宅が建てられた。
記憶に新しい平成7年(1995)1月の阪神・淡路大震災では仮設住宅が建てられた。

余談ついでに…
スキーのジャンプ競技場で知られる北海道の大倉山も、昭和6年(1931)に大倉喜八郎の子、喜七郎が私財を投じて「大倉シャンツェ」(ジャンプ競技場)を建設したことにちなみ、それまで無名だった山の名を「大倉山」と呼ぶようになった。

注.1 初代伊藤博文像は、明治37年(1904)湊川神社本殿横に設置されたが、翌年、日露戦争の講和条約の内容に不満を募らせた民衆によって引き倒され姿を消した。



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