処女塚古墳

処女塚古墳
処女塚(おとめづか)古墳は兵庫県神戸市にある3世紀後半から4世紀前半に築造されたと考えられる全長約70メートル(後方辺約39m、高さ7m、3段、前方幅約32m、高さ4m、前方部2段)の前方後方墳である。
昭和54年(1979)より発掘調査を兼ね史跡公園としての整備が開始され、昭和60年(1985)に完成した。この時、墳丘を覆う葺石の存在が確認されているが、全体的に破壊が進んでいる。後方部中央の埋葬施設は調査されていないが、竪穴式石室と推測されている。くびれ部に近い前方部で箱式石棺1基が発見されているが、これは処女塚が築造された年代より後の時代に埋葬されたものであることが確認されている。
出土した土器には鼓形器台(つつみがたきだい)などの山陰系土器が含まれている。西方約2000メートルに在る西求女塚(にしもとめづか)古墳からも鼓形器台が出土しており、六甲山南麓に存在する弥生時代後期から中世にかけての郡家遺跡を知る手掛かりとして注目されている。
大正11年(1922)3月8日に国の史跡に指定されている。

悲恋伝説「菟原処女(うないおとめ)の伝説」では、処女塚古墳は菟原処女の墓とされ、菟原処女を妻に迎えたいと激しく争った二人の男の墓(とされる古墳)が処女塚を挟むように東西にあり、処女塚の西方約2000メートルにある西求女塚古墳(注.1)が茅渟壮士(血沼壮士、智弩壮士、ちぬおとこ)の墓、東方約1500メートルにある東求女塚古墳(注.2)が菟原壮士(うないおとこ)の墓と伝えらていた。
『万葉集』には、田辺福麻呂、高橋虫麻呂、大伴家持が菟原処女墓(うないおとめのはか)について詠んだ短歌がある。平安時代に書かれた『大和物語』、室町期の謡曲『求塚』(もとめづか)もこの悲恋伝説を題材としており、明治時代の文豪、森鷗外は、この伝説を題材として戯曲『生田川』を書いている。

『太平記』巻十六「新田殿湊川合戦の事」に拠ると、延元元年(建武3年、1336)5月25日、湊川の戦いに敗れた新田義貞を逃すため、義貞の身代わりとなって小山田太郎高家がこの古墳の上で討死したという。
古墳の脇には小山田高家の顕彰碑と万葉歌人田辺福麻呂(たなべのさきまろ)の歌碑が建っている。

この公園(古墳)で自殺があり、因果関係は定かではないがそれと前後して幽霊が出るようになったという話がある。


説明板より

小山田高家の碑

延元元年(1336)、湊川の戦いに敗れた新田義貞は、生田の森から東に敗走して東明(処女塚付近浜辺)まで来た。しかし、近づいた追手の矢で馬はたおれ、義貞は馬を降りて、処女塚に登って敵を防いだ、その窮状をはるかに眺めた小山田太郎高家は、これまでの義貞の恩義を思い出して、塚に駆け寄って自分の馬に義貞をのせて、東に逃れさせた。高家は塚上に留まって敵を防いだが、味方の敗色は濃く、ついにこの処女塚の上で討たれてしまった。「太平記」の描くこの武勇を記念して、弘化3年(1846)の代官竹垣三左衛門藤原直道が東明村塚本全左衛門・豊田太平・牧野壮左衛門に命じて建てさせものである。


田辺福麻呂(たなべのさきまろ)の歌碑

「古(いにしえ)の 小竹田荘士(しのだをとこ)の 妻(つま)問(と)ひし
                兎原処女(うねひおとめ)の 奥(おく)つ城(き)ぞこれ」

この歌は、万葉の歌人、福麻呂が旅の途中で処女塚に立ち寄った時の現況と、それから受けた感動を歌ったものである、古くから処女塚古墳には、東灘区住吉宮町一丁目の東求女塚古墳と灘区都通三丁目の西求女塚古墳にまつわる悲恋の伝説が言い伝えられている。
この伝説は、二人の男性が一人の女性を慕ったため、女性は身を処しかね、嘆きつつ死んでしまった。
それを知った男性の墓を東西に造ったという物語である。側面には八十一叟正四下位加茂季鷹とある、その左方に建碑年号と思えるものがあるが明らかではない。

平成6年3月 神戸市教育委員会




注.1 神戸市灘区都通3。大塚山古墳。菟原処女の伝説では、茅渟壮士(血沼壮士、智弩壮士、ちぬおとこ)の墓と伝えられる。
注.2 神戸市東灘区住吉宮町1。呉田塚。菟原処女の伝説では、菟原壮士(うないおとこ)の墓と伝えられる。




2022/07/06 加筆再編集






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