嬉野の竹薮

嬉野の竹薮
加東市の嬉野交差点の南東、通称学園道路(兵庫県道564号厚利社線)の南に取り残されたように周囲の風景とは不釣合いな竹薮が生い茂っている一画がある。
幹線道沿いということもあり、それなりに目立つ場所だが、この辺りが開発される以前からあった様で、地元の人は昔から見慣れているのかさして気にもしていない様子だった。

東西約220メートル弱、南北約115メートル程のほぼ正方形をしている。
ここが「心霊スポット」という話を聞いて色々と調べてみたのだが、残念ながら具体的に何がどうという話は聞くことが出来なかった。
色々と調べて得られた情報は、いつの頃か袋詰めにされた猫の死体がこの竹薮の竹に吊るされていた事があったということと、この竹薮の中にホームレスなのか土地の所有者なのか定かではないが何者かが住んでいるという話だった。

これは中に入って分かったことなのだが、この竹薮は(地図で見た状態で表現すると)アルファベットの「T」の字を逆様にした様な形にフェンスで三分割されており、南部は建設会社の資材置き場になっており、敷地北側に取り残された様に竹薮が残っている。
そして、北西部は手付かずの深い竹薮(ここが竹薮の大半を占める)、北東部の7~8割は近傍の研修施設の駐車場として整地され、僅かに竹薮が残るだけだった。
土地を境界を示すフェンスは錆と苔に覆われ、かなり古い物であることは容易に想像できた。

様々な場所から総ての竹薮にアプローチする。
研修施設の駐車場の西に僅かに残された竹薮に強行突入するも、中は竹が密生するだけで、人が足を踏み入れた様な形跡も何も見当たらなかった。
次に資材置き場の中に残された竹薮に強行突入すると、そこには幾つかのゴミと共に、何者かが筍を採った(盗った?)形跡が伺えたが、それ以上は何も見当たらなかった。
最後に、竹薮の大半を占める北西部へと向かう。
ここは幹線道の歩道に面した所から道がついていたので容易に中に入って行けた。

手付かずの竹の林の中は、すぐ側を走る車の騒音さえ掻き消す様に静かで、別世界に来た様だった。
広い竹薮の中には、直径1メートル、深さ60~70センチ程度の明らかに人工の物と思われる穴が不規則に点在しているが、それ以外は多少ゴミの類が落ちている程度で、人が住んでいたらしき痕跡は何も見出す事が出来なかった。

気になったといえば、何箇所かある穴のひとつだけが井戸の様な雰囲気で、周囲に何故か丸底フラスコ2個と数本のビンが転がっていた事ぐらいだろうか。

加東市の住所に「嬉野」という地名は無いが、市内中心部に横たわる丘陵地帯を嬉野台地と呼んでいる。
「加東郡誌」(大正12年、加東教育委員会 発行)によると、「一説には、嬉野は、もと依藤野と称したりしが、天正の頃、美嚢郡細川村を領せし冷泉家は、三木城主別所氏に所領を掠奪せられしより冷静為純の子為勝はその家老たる小田城主依藤太郎左衛門に救われて、此の野に来りその安全を喜びたり。因って嬉野と称すと伝ふ。」とある。
同誌には、依藤(よりふじ)太郎左衛門により冷泉(れいぜい)為勝は難を逃れた様に記されているが、嬉野交差点から東南東に4キロメートルほど行った所(同市栄枝)の県道564号線沿いの雑木林の中には「依藤太郎左衛門 冷泉為勝 自刃の地」の碑と共に「依藤太郎左衛門の墓」、「冷泉為勝の墓」がひっそりと佇んでいる。
「三木城主別所氏に所領を掠奪せられし 云々」の件だが、少しばかり詳述すると、天正6年(1578)、織田信長の命を受けた羽柴秀吉が中国の毛利氏を攻めていた時のこと。軍議決裂から東播磨守護三木城主別所長治が織田信長に離反し毛利氏に付いた。この時、三木細川城の冷泉(藤原)為純、為勝父子は秀吉に与していたため別所長治からの誘いに返答しかねていた。
事を急ぐ別所長治は家臣で中村城主の岡村氏に細川城を攻めさせる。城主冷泉為純は討死、長子為勝は救援に駆けつけた冷泉家の執事だった小沢城主依藤太郎左衛門とともに依藤氏の本領東条谷へと逃れる途中、ここ依藤野で追手に迫られ自刃したと伝える(城から火の手が上がるのを見て覚悟を決め自刃したとも伝えられる)。


2019/10/02 追記
雑木林周辺にあった嬉野耕民研修所は解体。一帯は整地され平成31年(2019)4月に加東市立加東みらいこども園が開業した。

2020/10/09 加筆再編集






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