布敷首霊地 (割塚古墳)
(事実誤認の一例)

JR灘駅の近く、神戸市立更正センター傍らの小さな土地に大きな石碑がある。道路側からは見えないが、回り込むと中央に大きく「布敷首霊地」と刻まれている。
いつ頃誰が言い出したのか定かではないが、その昔、この辺りは処刑場(或いは獄門台)があって、布を敷いた上に(処刑された者の)首が晒されていた場所(=霊地)であった、その供養のためこの碑を建てたといった噂があるようだ。
また、春日野道に春日野墓地や火葬場があったのもそれに関係があるのではという話であった。

この話は「布敷首霊地」という文字から出来た噂であろうことは想像に難くない。
布敷首霊地は「ぬのしきのおびとれいち」と読む。かつてここから西南に20メートルほどの所(注1.)に割塚(わりづか、和里塚、和里墓)と呼ばれる古墳時代後期の横穴式石室を持つ大円墳があり、ここが摂津国菟原郡(兎原郡とも表記、うばらのこおり)布敷郷(ぬのしきのさと)の首長、布敷首(ぬのしきのおびと(注2.))の墳墓(古墳)ということで大正15年(1926)土地の所有者によってこの碑が立てられた。しかし、実際に布敷首の墳墓であるという確証は無いらしい。

処刑場或いは獄門台という話については、私が調べた限りではこの辺りに処刑場あったという事実は確認できなかった。
詳しいことは分からないが、この辺りなら処刑は兵庫か尼崎の刑場で行われたと思われる。

墓地に関しては、春日野墓地の起源は古くは江戸時代初期の寛永年間(1624~1645)にまで遡るが、前述のように処刑場或いは獄門台は当地には無かったと思われ、処刑場云々と墓地に直接の関係は無いと思われる。
また火葬場は明治32年(1899)に神戸市が墓地を拡張した時に北東部に建設したものである。
戦後、周囲の住宅化が進んだことから、神戸市は昭和38年(1963)から同41年(1966)にかけて春日野墓地の古くからあった墓地以外の市営共同墓地を神戸市立鵯越墓園(神戸市北区山田町下谷上中一里山)に、外国人墓地を修法ヶ原にある神戸市立外国人墓地(神戸市北区山田町下谷上中一里山)に移転している。

以上のことを踏まえ、ここが処刑場であったとか、それに由来する心霊スポットではないことはお分かり頂けたことと思う。
今回は事実誤認から心霊スポットの噂が出来たひとつの例として取り上げてみた。

注1. 昭和10年(1935)、阪急電鉄の三宮乗り入れ工事の際に割塚古墳は取り壊された。現在石碑が立っている場所は割塚古墳があった場所から西南に20メートルほど移動している。
注2. 首(おびと)とはヤマト王権で使われていた姓(かばね)の一つ。








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