鬼 墓

―鬼墓についての考察―




六甲山には、首無しライダー、メリーさんの館、ターボばばあ、牛女などをはじめ数多くの怪談とも都市伝説ともとれる数多くの話や体験談がある。そんな中でも、比較的マイナーな部類に属すると思われる話に『鬼墓』(旧六甲山牧場)という話がある。

話の概要は以下のようなものである。

ある若者数名が深夜心霊スポット巡りのため六甲山にやってきた。
そこでひょんな事から脇道に入ってしまい、彼らは旧六甲山牧場に出てしまった。
彼らは、そのまま車を進めてゆくと、道は悪路となり車では進めない状態となったが、好奇心から車を停め、懐中電灯をもってそのまま徒歩で進んでゆく事となった。

暫く歩くと、工事現場のような所に出てしまい、周囲には様々な道具(建設資材?)やビケ足場(建設現場の足場造り用のパイプ材)などが散乱しており、それらは長期間放置されている様子だった。

そうこうしていると、仲間の一人が小さな40~50cm程の石碑に気付いた。それは、墓石のようで、そこには以前にお供えされたまま枯れた花やコップ等があり、表面にはたった一文字、“鬼”と刻まれていたという。
その瞬間、それまでの風が止み、闇に混じってかすかに呻き声の様なものも聞こえてきだした。
連中は一目散に逃げるようにそこを後にし、やっとの思いで車に乗り込み一気に六甲山の頂上まで車を走らせた。
そこで、その墓石を見ていない連中も周囲の慌て様に一緒になって逃げたものの、何故逃げたのか判然としないので最初に逃げ出した連中に聞いてみた。
そこで、さっきあった話の一部始終を話すと、その中の一人がその“鬼”と書かれた墓石の事を知っていたらしく、詳しい場所までは知らないが、話には聞いていたそうだ。

その人が言うには、なんでもその墓石は「鬼墓」と言うらしく、かつて旧六甲山牧場を拡張しようとした時、現在鬼墓のある界隈(当時は何も無かった)に畜舎を建てたという事だった。
ところが、或る日、一夜にしてその畜舎の羊や牛が数十頭何者かによって虐殺され、畜舎もメチャクチャに壊されていたというのである。
また、そこに飼料用の倉庫を造り直し、飼育員が数名で倉庫の掃除をしていると、傍にある切り立った崖の下から苦しそうな呻き声と共に「地獄絵図」に登場するような餓鬼が現われたという。
幸い、飼育員たちは間一髪難を逃れたらしいが、そんな事があって以来その場所に供養碑(=鬼墓)を建立し、懇ろに弔い、二度とそこには近づかなくなったという。
後に分った事だそうだが、その場所は、江戸時代以前の飢饉で多くの人が餓死した場所だったそうだ。

以上が『鬼墓』伝説のあらましである。
しかし、私に言わせると何点かの疑問を唱えずにはいられない。

【1.】そもそも供養の為の墓石に「鬼」という文字を刻むであろうか?

【2.】江戸時代以前の飢饉で多くの人が餓死した場所だったとあるが、そうなれば、姥捨て山のように“口減らし”のために多くの人がここに捨てられたのだろうかという疑問が生じる。
しかし、私の知る限りでは、(当然かもしれないが)史書にはそれを裏付けるような記載は見受けられない。

【3.】そしてこれが最大の謎である。
鬼墓以外でも、心霊スポットを扱った話の中で「旧六甲山牧場」という言葉が聞かれるが、私の知る限り「旧六甲山牧場」なるものは寡聞にして聞いた事が無い。
現在の六甲山牧場は、 昭和25年(1950)に スイスの山岳酪農をモデルに畜産振興と観光的要素をもつ高原牧場の開設が企画され、現在の場所に5年間の牧草栽培試験が実施された事に始まり、 昭和31年(1956)に動物(牛2頭、羊3頭)の放牧が開始、昭和47年(1972)に市内酪農振興の拠点として乳牛265頭、羊130頭を飼育。昭和51年(1976)4月1日より一般開放が始まるという経緯があり、昭和25年の計画より現在に至るまで六甲山牧場は移転も廃業もしていないのである。
勿論、これ前後に何処かの企業が六甲山に牧場を設けようとして経営に失敗して撤退したというのなら別だが、長い間神戸に住んでいるが一度たりともそんな話は聞いた事が無い。

【4.】そして、なによりメリーさんの館では無いが、実際にこの「鬼墓」なり「旧六甲山牧場」なりの写真が一つも無いというのはどういうことなのだろうか? メリーさんの館は色々な条件で様々な所に出没するというが、まさか「旧六甲山牧場」までもが現われたり消えたりするというのであろうか?

以上の点から、私はこれを“都市伝説”の一つではないかと考えたのである。

余談であるが、六甲山系には神戸市灘区鶴甲に「牛七匹の墓」、同東灘区住吉台に「丑供養塚」がある。






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