皆殺しの館
-後 編-

皆殺しの館跡 そこで私が見たものは…
そこかしこに倒れた朽木と一面に生い茂るシダばかりの風景だった。勿論、道らしい道など見当たらない。
一瞬もう諦めが脳裏をよぎる。しかし、ここまで来て今更。そう思い、生い茂るシダとクモの巣を掻き分けながら道無き道を進んでゆく。
肝試しや心霊スポット探索の面々が深夜にこの山道を歩いていったとは到底考えられない。何より、何年も人が通った痕跡が無い。そんな事を思いつつ、右も左も分らないまま、全くのカンだけで道無き道を進む。
しばらく突き進んでゆくと、ようやく獣道のようなところに出た。その獣道を辿ってゆくと、道の傍に上部を赤いペンキで塗られた「成合寺塔…(以下不明)」という石があった。下部は地中に埋もれていて判読できないが、成合寺の近くまで来ている事は確かなようだ。さらに奥へ奥へと獣道を進む。道沿いには点々と先程見た「成合寺」と刻まれた石がある。これを辿ってゆけば成合寺に辿り着ける、そう思い山の中を彷徨う事、約1時間。行けども行けども深い森の中、僅かずつではあるが日は西へと傾きかけている。まさかこんな山の中で日が暮れてしまったりしたら洒落にならないぞ。しかも、“心霊スポット探索中に遭難”なんて事になったらみっともない事この上も無い。焦りつつもそんなつまらない事が頭の中を駆け巡る。しかも、頼りのあの(成合寺と刻まれた)石も見なくなって久しい。
取り敢えず、こうなればこの森から抜け出す事が先決だ。そう思い途切れ途切れの獣道をひたすら歩いてゆく。
どれぐらい歩いただろう、ようやく目の前に平地らしい所が見えた。そこはミカン畑だった。しかしまだ周囲は木々が生い茂っている。目の前の道は左右に一直線に続いている。右だろうか、左だろうか、こうなればカンだけが頼りである、自分のカンを信じ左へと進んでゆく。暫くすると溜池の傍に出た。池の周囲を歩いてゆくと、やがて田圃に出て、田圃の畦を歩きようやく集落の中を走る道路へと出れたのである。
これは後になって思った事だが、山の随所にあった「成合寺」と刻まれた石は、往時の成合寺の塔頭の跡を示す物か、寺領の境界を示す物であったのではないかと思う。

もはやこれまでか…
そんな諦めに似た気持ちを抱えたまま、重い足を引き摺るように車まで戻る。
ここまで来ていて収穫ゼロではかえるに帰れない。そう思うと居ても立っても居られなくなり、再び先程の崖をよじ登り始めた。今回は前回の失敗もあるので少しばかりルートを変えて登ってみる。しかし、結局辿り着いたのは一番最初に見た「成合寺塔」と刻まれた石のある所だった。
仕方が無い、取敢えず降りよう。そう思い降りる道を探していると、それまで見つける事が出来なかった山を降りる獣道がある。取敢えず道なりに進んでゆくと、また「成合寺」と刻まれた石がある、それを見ながら更に進んでゆくと、突然目の前が開けた。そこは墓地だった。墓前には、ついさっき手向けられたと思われる花が供えられている。
墓地があるということは、お寺も近いのではないか。そう思い、道を辿ってゆくと目の前には青々と草の茂る大きな広場があった。これこそが成合寺(皆殺しの館)跡である。
焼失したそこは綺麗に後片付けがされ、今となってはかつての“皆殺しの館”を偲ぶ術も無いが、僅かに建物の土台のような痕跡と井戸と手水鉢だけが残っていた。

成合寺跡に残る井戸 よく見ると、なんとこの場所まで車が入れるように綺麗に舗装された道がついているではないか。
やられた… そんな事を思いながら舗装された道を進むと、なんと目の前には巨大な鉄格子を思わせるゲートが立ちはだかっている。しかも、ご丁寧に南京錠が上下2ヶ所に施されている。
まさか、また今来た道を戻れというのか? そう思いながら周囲を見回すと、道沿いに張り巡らされた金網が丁度人間一人が通れるほどに穴が開けられている。もしかして… そう思いながら金網を潜り、フェンス伝いに歩くと、すぐにまたフェンスがある。そこには、何度となく穴が開けられては有刺鉄線で補修された形跡があった。そのフェンスの向こうには、先程何度となく車で通った車道があった。
このルートを使えば徒歩2分程度だろうか。
随分と遠回りしたものである(苦笑)

さて、それではいよいよ「皆殺しの館」の真相を書くとしよう。
私が皆殺しの館について聞いた本当の話は次のようなものであった。
最初にも触れたが、この廃屋は「成合寺」という寺院で、山号を普陀巌山と号し、、釈迦如来像を本尊とし曹洞宗永平寺の末寺として元禄元年(1688)ゴガク上人(漢字表記不明)の開基と伝えられる。
その後、泉州佐野の豪商飯野氏(注.1)が愚白和尚を開山として再興。
所有者のI氏(表札の名前の人)は、父親の代に大阪市内に移られたそうで、留守となったこのお寺を別の人に管理を頼んでいたらしい。以来、何人かの人がこのお寺に住まわれていたそうだが、いつしか誰も管理する人が居なくなり、やがて廃屋となっていったらしい。
昭和52年発行の『熊取町の寺院』に「住職はおらず檀家もないために荒れはて」とあり、当時すでに無住寺となっていたようである。
家族を惨殺し自らも自殺したといわれるI氏がご健在な事からも分ると思うが、誰に聞いてもここ(成合寺)でそのような事件があったことは無く、全ては事実無根の噂だったのである。

心霊スポットとして噂が一人歩きしだして久しい平成13年(2001)8月(10月とも)のある日、成合寺は心無い人間による不審火で焼失してしまった。

注.1 飯野(めしの)氏
泉州佐野の豪商。江戸時代に回船問屋、新田開発を行う。江戸時代の長者番付では西の大関として飯野佐太郎の名が記されている。ちなみに、東の大関は三井八郎左衛門。
宝暦十一年(1762)、幕府の財政再建のため、鴻池家と共に徳用金五万両を徳川幕府に献上したりもしている。
  尾張徳川家、出羽佐竹家、加賀前田家、筑前黒田家、肥前鍋島家はじめ、諸国の五十余の藩、有栖川宮家なども飯野家より金を用立ててもらっていたという。
しかし、明治維新時、大名への四百万両の貸し倒れが原因で没落した。
井原西鶴の「日本永代蔵」に登場する唐金家は飯野家の縁戚に当り、この唐金家と飯野家をモデルに西鶴が「日本永代蔵」を書いたと言われている。
まったくの余談だが、この飯野佐太郎は私 Black Velvet の母方の直系のご先祖様にあたる。



2018/12/22 加筆再編集。






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