ひらて家
付 平手政秀首塚・織田常寛の碑
(未完 / 調査継続中)

No Image
名古屋市西区中小田井に「ひらて家」という心霊スポットがあると聞いた。
詳しいことは詳らかではないが、家の床一面にお経が書かれている、家の中にあるおかっぱの女の子の写真が泣いたり怒ったりするということだった。

名古屋近郊に住んでいる知人、友人に尋ねたり、心霊スポットを扱った本やサイトを見てみても「ひらて家」についての情報は何も得られなった。
暗中模索の中、名古屋近郊に住む知人が「直接「ひらて家」とは関係ないと思うけれど、何かの参考になれば」と、次の様な事を教えてくれた。
・中小田井(注.1)の東雲寺というお寺に「平手政秀の首塚」が在る。
・中小田井の願王寺というお寺に平手家という古い家が移築されている。

東雲寺の平手政秀の首塚は、これに触れると「おこり」(瘧、マラリア)を患うという言い伝えがある。
触れると祟りのある首塚はオカルト的には申し分ない話だとは思うのだが、残念ながら件の「ひらて家」とは関係無さそうに思える。
お寺に移築された平手家は、確かに(探している「ひらて家」とは違うにしろ)「ひらて家」に違い無く、更に言うなればお寺なのでお経が書かれた襖絵や屏風などがあっても不思議ではないが、さすがに足で踏む場所(=床)にお経を書いているとは思えない。

「ひらて家」については余りにも情報が少なく、折を見て調べてはいるのだが何の進展も無いといった所が実状である。
本記事を掲載する事により一人でも多くの人の目に留まり、何か情報が得られればとの思いから進捗状況の報告といった形で掲載する事にした。

進展があり次第ここで報告して行きたいと思っている。

注.1 名古屋市西区中小田井



旧 平手家(明光閣)
【 旧 平手家 】
旧 平手家(旧 平手邸)とは、中小田井の町並み保存地区北入口の東側にあった天保年間(1831年~1845年)の切妻桟瓦吹葺の建築物で、当地の庄屋平手家の母屋であった。平手家は格式の高い庄屋で、多くの農地を有していた。
平成14年(2000)(平成15年(2001)とも)母屋と四阿(あずまや、東屋)が願王寺境内東奥に移築され、母屋が明光閣という名前で書院として法事などに利用されている。また、大相撲名古屋場所開催中には伊勢ノ海部屋の宿舎としても使用されている。
現在、平手家が在った場所には土蔵のみが残っている。
平手政秀首塚 織田常寛の碑
【 平手政秀首塚 】
平手政秀とは織田信秀、その子信長の二代に使えた戦国時代の武将。
織田信長の傳役(もりやく、ふやく)であったが、一向に治まらぬ信長の奇行を憂い、自らの死をもって諌めたと言われる。
一般的には居城の志賀城で諌死したとされるが、名古屋市西区の歴史では庄内川の河原で自刃したと伝わり、その首級を弔った場所がこの東雲寺に在る首塚だという。
東雲寺には平手政秀の首塚の他に小田井城主織田常寛の碑があり、これらに触れると「おこり」(瘧、マラリア)を患うという言い伝えがある。
東雲寺墓地に在る。
【 織田常寛の碑 】
織田常寛(おだ つねとお、つねひろ、じょうかん)とは清洲三奉行の一つ織田藤左衛門家の当主。小田井城主。
明応元年(1492)、織田常寛が開基となり美濃国瑞竜寺から慈済禅師を講じて東雲寺を開山。 これは、廃寺となっていた長興寺の残っていた塔頭の一つ東雲軒を東雲寺として新に創建したと思われる。
織田常寛の碑は、宝永2年(1752)常寛の子孫が建立したもので、平手政秀の首塚と共にこれに触れると「おこり」(瘧、マラリア)を患うという言い伝えがある。
東雲寺本堂左手に在る。


本ページはフレーム構成となっております。
左端にメニューが表示されていない場合はこちらからどうぞ。