落武者の幽霊

この道に落武者の幽霊が出るという
奈良県橿原市某所。田畑の中を真っ直ぐに走る幹線道、深夜ここを走っていると道路上に落武者の幽霊が現れるという。
周辺で合戦があったという話は聞かなかったが、奈良県は室町時代の正長2年(1429)、大和永享の乱(注.1)で大和の国一帯が戦場と化した歴史がある。橿原市は大和国高市郡越智荘(現 奈良県高市郡高取町)の豪族越智(おち)氏と、大和国十市郡十市(現 奈良県橿原市十市町)を本拠とした有力国人で筒井方に与した十市(とおち)氏それぞれの本拠地があり、大和永享の乱で双方が敵対していた。記録には残っていないが、この辺りでも戦があり、ここで命を落とした武士がいたのかもしれない。

末筆となりましたが、本項の脚注作成に当り Nightmare 様(from Nightmare's Psychiatry Examination)よりご解説、ご協力を頂戴致しました。
この場をお借りして、今一度お礼申し上げます。

注.1 大和永享の乱 : 室町時代の正長2年(1429)に大和国で発生した戦乱。
正長2年7月、大和国の国人で興福寺大乗院衆徒(注.2)の豊田中坊と興福寺一乗院衆徒の井戸某の対立が勃発。南北朝時代に南朝方であった南大和の国人で一乗院国民(注.3)の越智氏をはじめ、南大和の国人で一乗院国民の箸尾(はしお)氏らが豊田氏を支援、片や北朝方であった北大和の国人で一乗院衆徒の筒井氏は縁故関係を持つ井戸氏に与し、そこに南大和の国人で大乗院国民十市氏が井戸氏を支援。小豪族の豊田氏と井戸氏の争いに「大和四家」と呼ばれた筒井氏と十市氏、越智氏と箸尾氏が介入したことで北和の雄と南和の雄の大規模な衝突となり、大和国全体を戦乱の渦に巻き込んだ。
注.2 衆徒(しゅと) : 大和国を支配していた興福寺は、大和国の国人を俗人のまま僧侶に任じ興福寺僧徒とした。これを衆徒と呼び、国民との大きな違いとして衆徒は法体である。
注.3 国民(こくみん) : 大和国を支配していた興福寺は、興福寺と一体化した春日社(現 春日大社)の末社の白人神人(はくじんじにん)(注.4)とした。これを国民と呼び、衆徒との大きな違いとして国民は俗体である。
注.4 白人神人(はくじんじにん) : 社家(しゃけ、代々特定神社の奉祀を世襲してきた家)に仕えて神事、社務の補助や雑役に当たった下級神職、寄人を神人(じにん、じんにん)、社人(しゃにん)という。神社に直属する神人を「本社神人」と称し、各地の末社を中核とする社領荘園に散在し、寄人として末社の任務に従事した神人を「散在神人」(さんざいじにん)と称した。
大和国の春日社(現 春日大社)は、一部の特別の事例を除けば本社神人は黄衣(こうえ、黄色の衣)を制服として着用し、散在神人は白衣(びゃくえ、白色の浄衣(じょうえ))を制服として着用していた。前者(本社神人)を「黄衣神人」、後者(散在神人)を「白人神人」と称した。



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