衣山刑場跡

衣山刑場跡
四国探訪二日目。風神塚(高知県津野町)へ行く前に、本日の最初の目的地、“愛媛県最恐の心霊スポット”と言われる衣山刑場跡を目指す。

松山市内から北西に1.7キロメートルほど行った所、衣山(きぬやま)という所にかつて伊予松山藩の処刑場があった。

衣山○丁目という住所と現在は松山刑務所所管の墓地になっているという情報を基に、衣山○丁目に向けて車を走らせる。
しかし、一口に衣山○丁目といってもその範囲は広く、来てはみたものの何処が処刑場跡なのか見当もつかない。
住宅街の中の車一台が辛うじて通れるほどの狭い道のグルグルと迷うこと数分。
道を尋ねようにも人が見当たらない。加えて、(今いる所が、処刑場跡から近いか離れているのか定かではないが)そこに住まれている方に向かって「この辺りに、昔、処刑場があったと聞いたのですが…」と尋ねるのもどうかと思う。

迷走すること数分、比較的広い道に車を停め思案していると、そこへ犬の散歩をさせている年配の女性が通りがかった。
このままでは埒が開かないので、意を決してその女性に尋ねてみる。
私「衣山○丁目にその昔処刑場があって、今その辺りは(松山刑務所所管の)墓地になっていると聞いたのですが…」
といった旨のことを尋ねると、その女性は少し考えながら
女性「昔処刑場があったという話は聞いてます。でも、今は何も無いと思いますよ。」
女性「どちらの方から来られました?」
私「○○(兵庫県某所)からなのですが、この辺りの地理は全く分からなくて…」
女性は道を教えてくれようとしていたのだが、土地勘のない私は右も左も全く分かっていない。
私「(来た方を指さしながら)そこの下の大きな道からこちらに上がって来たのですが…」
女性「衣山○丁目でも、(処刑場跡は)この辺りじゃなくて、その(私が来たという)大きな道沿いに自転車屋さんがあるんですよ。その斜め向かいを上がって行った所ぐらいがそう(処刑場跡)だと思います。衣山○丁目に墓地があるという話は聞いたことが無いです… 今のG(施設名)のある辺りがそう(処刑場)だったと聞いています。」
と、突然の奇妙な質問にも関わらず、その女性は丁寧に教えてくださった。

(施設名)… 処刑場跡を探してウロウロしている時にその名前を記した大きな看板を目にしていた。
手掛かりを求めて、その建物のある所まで行ってみる。
先ほどの女性が教えてくれた建物はここらしい。周囲はマンションや住宅となり、様相は一変している。

江戸の三大刑場に数えられた鈴ヶ森や小塚原と違い、また処刑場という性質上わざわざそれを後世に残すことはしないのだろう。と半ば諦めながら、何気なく目の前に有る小高い丘になった雑木林に目を遣ると、何やら石塔のようなものが建っているように見える。
なるほど、処刑場跡に建てられたと言われる建物に隣接するここが松山刑務所所管の墓地なのだろう。

松山刑務所所管の墓地は、道路から川を隔てたこんもりとした雑木林の中に隠れるようにひっそりと在った。
正面の門には「当所は、松山刑務所所管の墓地につき許可なく立入りを禁止します。 松山刑務所長」との注意書きが有り、周囲はフェンスで囲まれている。
右手フェンスの中には「浄域」と刻まれた石碑、左手フェンスの外には「更生の途上むなしく仆(たお)れたる み魂よ安く眠れ衣山 昭和四十二年九月 愛媛更生保護婦人会」と刻まれた歌碑が建っている。
丘の中央には「合葬之墓」と刻まれた大きな碑が立っている。中央に立つ大きな碑の右後方にも上部が欠損した「合葬之墓」と刻まれた碑があり、恐らくは何らかの理由で破損したため、新しい碑が建立されたものと思われる。獄中で亡くなった方で供養する親族や縁者のいない方の供養のための物であろう。
フェンス沿いに奥に行った所には高さ2.5メートルほどはあると思われる供養塔がひとつ、ぽつんと建っている。勝手な推測だが、この供養塔は、ここで処刑された人たちの供養のためのに建てられたのではないだろうかと思われた。
供養塔の奥には古井戸(井戸枠はコンクリート製になっている)も見受けられる。いつの時代の物なのかは定かではないが、処刑場といえば斬首された首を清めるために、首洗い井戸が設けられていることが多い。これも推測だが、この井戸は首洗い井戸だったのかもしれない。

ブロック塀に埋め込まれた碑には、この墓地について以下の様に記されている。

此処衣山ノ地ハ松山藩刑場ノ由ナルカ明治初年愛媛監獄署ノ設置ト共ニ監獄墓地トシテ引継ガレ雨來百星霜墓碑ハ上方下方二分散シ昭和年代ノ埋葬ハ獄中ニ放置サレ轉荒涼(注.1)ノ如デアッタ依ッテ愛媛県教誨師会ガ改修整美ヲ發起シ浄財ヲ募リ施設ノ手ニヨッテ業ヲ成シ全骨ヲコヽニ納基シタモノデアル  昭和四十二年九月

処刑場跡から少し離れた所には衣山地蔵堂が有り、堂内には自然石に「南無妙法蓮華経」と刻まれた供養塔と四体の地蔵尊が祀られていた。処刑された人たちの供養のために建立されたもの思われる。

供養塔 後方に井戸が見える 史書で衣山刑場についての記述を調べてみると、『松山市誌』の「第十一章 風俗」に「継子殺の女を札の辻に曝し衣山にて磔殺したる」とだけ記されている。
また、明治33年(1900)11月に発表された松山の名所旧跡を詠った「尚文会作歌 地理教育伊豫鐵道唱歌 向井湊居堂蔵版」の9番には、「聞くもをののく刑塲の むかしのあとの衣山に 春秋毎のあめの夜は 鬼火もゆとも云い傳ふ」という一節もあり、当時、衣山刑場は松山の人々に知られた存在であったと思われる。

先の伊豫鐵道唱歌にも詠われていたように、春や秋の雨の夜は衣山処刑場跡の辺りでは鬼火が燃えていたようである。
一帯の開発、造成が進み、平成(探訪当時)の時代にはもう鬼火の話なども聞かなくなったようだ。しかし、処刑場と関係が有るのか否かは定かではないが、周辺では様々な怪現象が起こっているという。
処刑場付近でぼんやりとした人影の様なもの(幽霊)を見た。女性の幽霊が現れる。墓地の門扉の向こう(立入禁止)の階段に男性の幽霊が立っている。理由は定かではないが、この男性の幽霊には決して話し掛けてはいけないといった話も聞いた。また、処刑場の前を車で走っていると突然前を黒い影が横切る、驚いて急ブレーキを掛けるがそこには何もいない。車で走っていて、バックミラーを見ると人間の様なものが車を追い掛けて来ている。処刑場の前を通った後、車の窓ガラスに無数の手形が付いていた。など奇怪な噂には事欠かない様である。
処刑場そばの踏切でも怪現象、恐怖体験が度々起こっているというが、私が現地を訪ねた時(平成29年4月)は、処刑場の側を走る伊予鉄高浜線の踏切も、そこから50メートルほど離れたJR予讃線の踏切も道路の下を通っており、踏切は見当たらなかった。
今でも、年配の方の中にはこの土地(処刑場周辺)を避けたり、忌む人も一定数おられるとも聞いた。

衣山には処刑場だけではなく浦上キリシタンが葬られた場所でもある。
幕末から明治初期にかけて、江戸幕府と明治政府は長崎でキリスト教徒の検挙、弾圧を行った。これが世に言う「浦上崩れ」である。
明治新政権は、地縁的、宗教的な結びつきを持った浦上キリシタン達の解体を狙い、彼らを浦上の地から引き離し各地に分散留置する。
この時、山口、津和野、福山の三藩へ114名、明治初年の第二次の流配では富山、金沢、大聖寺、名古屋、津、大和郡山、和歌山、姫路、岡山、広島、福山、鳥取、松江、津和野、山口、高松、徳島、高知、松山、鹿児島の二十藩、津藩がさらに分散留置させた大和古市、伊賀上野、伊勢二本松の三ヵ所へ3300名前後の浦上キリシタンが留置された。
高松では明治6年(1873)5月に帰郷を許されるまでの約3年半の間浦上キリシタンは高松に留置されていた。
留置中の明治3年(1872)8月と9月に赤痢により男子5名、女子2名が、明治6年(1873)2月には男子1名の8名が亡くなっている。
松山で亡くなった浦上キリシタンたちの亡骸は、藩の処刑場であった衣山に葬られた。

先にも書いたように、衣山一帯は造成され浦上キリシタン達の墓所が何処に有ったのかは辿る術もないが、明治6年(1873)5月に帰郷を許された仲間の浦上キリシタンたちが、この時石工に頼み松山の地で亡くなった仲間の墓碑を造り、密かに墓地に建てたといわれている。
カトリック松山墓地内の浦上キリシタン流謫碑の台座の前に置かれた2枚の石碑がこの時の墓碑ではないかといわれている。

注.1 轉荒涼(うたたこうりょう):すっかり荒れ果てて、ますます荒れ果てて、という様な意。
乃木希典が詠んだ漢詩「金州城外作」の一説に「山川草木轉荒涼」(さんせんそうもく うたたこうりょう)とあり、ここから引用したものと思われる。



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