念仏峠

念仏峠
京都府舞鶴市を走る京都府道568号線の西舞鶴から神崎地区を結ぶ途中に念仏峠といういわくありげな名前の峠がある。
念仏峠という名前の由来にはいくつかの説があってはっきりしない。
戦国時代の天正7年(1579)、付近にあった中山城を細川藤孝(幽斎)が攻めた時、この峠付近でも多くの武士が討死した。討死した双方の武士の供養のためこの峠で念仏をあげたことから名付けられた。江戸時代、現在の四所(ししょ)駅周辺にあったと言われる処刑場(※ 諸説あり)で処刑された加佐郡(注.1)の罪人や一揆の首謀者の供養のためこの峠で念仏をあげたことから名付けられた。念仏峠の下に田辺藩の牢屋があり、罪人が処刑場へ引かれて行く途中、念仏を唱えながらこの峠を越えて行ったことから名付けられた。また、峠に差し掛かる三叉路に念仏供養塔が4基あることから名付けられたといわれている。
京都丹後鉄道の四所駅から念仏峠に向かう国道175号線沿いには「一盃水」(いっぱいみず)という湧き水があり、処刑場に向かう罪人がここで末期の水を飲んだと言われている(諸説あり)。
念仏峠に処刑場があったという話もあるが、前述の処刑にまつわる話が誤って伝わったものと思われる。

下東交差点の東方に念仏峠の名前の由来となたっとも言われる念仏供養塔が4基ある。
この供養塔は、天正7年(1579)細川藤孝(幽斎)が一色右京大夫義定(満信、義俊、義有)(『加佐郡誌』には一色義通(義道、義辰)とある)の拠る中山城を攻めた時に討死した武士たちの供養のために建立されたといわれる。江戸時代中期に現在地の北側の下東農協(当時)辺りに集められ、その後、道路改修工事により現在地へ移設されたという。
向って右から、「大乘妙典一千部讀誦供養塔」、「大乘妙典六千部供養塔」、「大乗妙典全部写石 (右)乃至法界 (左)平等利益 塔」、「南無阿彌陀佛」と刻まれた4基の供養塔と、少し離れた所に「庚申塔」が建っている。
4基のうちの一つ、向かって一番右の「大乘妙典一千部讀誦供養塔」と刻まれた巨大な供養塔は、仏教経典である「大乗妙典」を一千回読誦した時の記念として建てられた碑で、疫病退散祈願のため建立されたと伝えられる。

念仏峠の名前の由来となったとも言われる念仏供養塔 「丹後の地名」というサイト様の「資料編」に収録されている「下東の地誌」には、4基中3基の供養塔に印された銘のうち、一番古い銘が宝延二年(1749)、2基が宝暦12年(1762)と宝暦14年(1764)であることから、宝暦6年(1756)の一揆の主謀者の供養のために建立されたものではないかと述べられている。
(天正7年(1579)の合戦の戦死者の供養塔とするなら、170年~180年を経ての建立ということになる。)

この峠には、落武者の亡霊が出る、処刑された人の霊が出る、大勢の人の咽(むせ)び泣く声が聞こえるといった今もこの地に留まり成仏できないと思われる霊の話から、「四つん這いババア」と呼ばれる老婆が地面に這いつくばる様に四つん這いの姿勢で凄い勢いで(車やバイクを)追いかけてくるといった都市伝説系の話まである。

余談だが、念仏峠の南側には国道175号線に沿って数軒の石材店がある。これらの石材店は昔からあったといわれ、処刑場で処刑された人の墓石を作っていたという話があるが、そもそも刑死者は葬儀も墓碑も立てることも許されていないので後付けの創作に過ぎない。

参考までに書くと、処刑場は四所にあったと言われるが「四所」という地名が「死所」に通ずるところから発生した噂程度の話であり、田辺藩の処刑場は別にあったと思われる。
詳細は不明だが、宮ヶ谷(舞鶴市上福井宮ヶ谷)、西方寺(舞鶴市西方寺)、広小路(舞鶴市職人)にも処刑場があったという話もあるが、詳細については確認できていない。
また、上福井と上東の境、建地峠(舞鶴市上福井建地)では前述の宝暦の一揆の首謀者ら四人が処刑されている。

「一盃水」「四所」についてはいずれ項を改めて書きたいと思っている。

最後に。
舞鶴赤十字病院の広報誌『紅鶴』Vol.77 (H27.10.29 発行)掲載の「ここらの地名 舞鶴赤十字病院編 その38」で、舞鶴市文化財保護委員、舞鶴地方史研究会会長  加藤晃氏が「一盃水」の地名の由来について「念仏峠で処刑された罪人が末期の水を飲んだと伝わる…ほんとはね、「南無阿弥陀仏」と念仏を書いた石塔があるだけで、峠に刑場なんかありません。」(抜粋)と書かれている。

注.1 かつて京都府(丹後国)にあった郡。現在の舞鶴市全域、福知山市大江町各町、宮津市由良、同市石浦。



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