朝霧の踏切跡

踏切跡に立つ供養碑
現在、日本の鉄道では高架化や地下化等によって踏切が減少する傾向にある。それでも、内閣府の「令和元年版交通安全白書」の「第1編 陸上交通 第2部 鉄道交通」によると、日本国内に存在する踏切は第1種~第4種全てを含めて33,250箇所が存在している。
踏切保安設備の整備等により、踏切事故は長期的には減少傾向にあるが、それでも、未だ日本各地には開かずの踏切と呼ばれる踏切が500箇所以上存在している。(上記「令和元年版交通安全白書」より)

JR朝霧駅から西に500メートルほど、大蔵朝霧陸橋の高架下に地蔵尊と供養塔が祀られた一角がある。
コンクリート製の小堂に祀られた地蔵尊、石造宝塔の様な形をした供養塔(正面に法華経、右側面に廻向経、左側面に金剛経と刻まれている)、自然石に無縁塔と刻まれた供養塔が線路を背にするように立っている。
現在の大蔵朝霧陸橋が完成する以前、ここには踏切があった。
所謂開かずの踏切で、無理に遮断棹を潜って渡ろうとした人と電車が接触する事故が多かったという。また、自殺の名所でもあったという。
事故、自殺の多発するこの踏切では度々幽霊が目撃されている。死者の霊が生者を死へ引き込もうとするのか、事故、自殺が後を絶たなかったという。
踏切跡に立つこの地蔵尊と供養塔はかつてここで亡くなった人々の供養のために建立されたものという。

この踏切で事故、自殺が多発するのは朝霧川河口周辺の海中に沈む人骨や墓石の祟りだという話がある。
今を遡ること四百数十年。天正14年(1586)頃、豊臣秀吉の天正の国替えで明石則実に代わって明石郡を与えられた高山右近は、高槻城(大阪府高槻市)から一旦枝吉城(兵庫県神戸市西区)に入城。明石海峡に面した明石川の湿地帯に船上城の築城と城下町の建設に取り掛かった。
キリシタン大名であった高山右近は僧侶達を明石から追放。周辺の寺社を悉く排斥し、寺にあった仏像から墓石や遺骨に至るまでを明石の海に遺棄したという。この時、船上城内にあったと思われる宝蔵寺(兵庫県明石市林2丁目)は無住寺となったため教会として使用され、外国人宣教師が数人常駐していた。
この時、海に遺棄された多くの人骨や墓石が未だに海中に沈んでおり、その恨みが数々の怪奇現象を起こしているのだという。

この話には続きがある。
天正15年(1587)に豊臣秀吉がバテレン追放令を発令すると、高山右近は船上城を追放され前田利家に迎え入れられた。
高山右近の追放後、林村(現 兵庫県明石市林)の藤原太郎左近が海中に遺棄された寺院の宝物等の引き揚げを試み、この時、鹿ノ瀬の海中より引き揚げた木造毘沙門天像を本尊として一寺を建立。これが現在の宝蔵寺だという話がある。
しかし、宝蔵寺の寺伝によると藤原太郎左近が宝蔵寺を建立したのは応永3年(1396)と伝え、高山右近が追放される190年以上前のことである。高山右近のために宝蔵寺が無住寺となり教会として使われていたことから考えても、この話には矛盾がある。

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