朝霧公園
(事実誤認の一例)

閑静な住宅街の中に在る朝霧公園。目の前に明石海峡を望み、春には満開の桜の花が楽しめる地域住民の憩いの場所となっている。
ここは城跡だったとか、明石藩の処刑場であたっという話をネット上で見掛ける事がある。

明石藩の処刑場といえば600メートルほど南方に「畑山刑場」が存在していた。
史書、地誌等を調べても、地元の人に訊いても朝霧公園にかつて処刑場が在ったという様な話は聞く事が出来なかった。
調べては行き詰まる、そんな事を何度となく繰り返す日々が続き、すっかり朝霧公園の事を忘れていたある日のことだった。
『垂水史跡めぐり』(昭和50年、川口陽之 著、垂水区役所 広報相談課 刊)にそのヒントがあった。
同書には、ここが「籏山(朝霧公園)」として紹介されており、天智天皇の時代に国境防備の一環として敵襲等を知らせるために烽火台(狼煙台)が設けられたとあり、江戸時代中期から明治期にかけては、大坂の堂島米会所の相場を西国に知らせるための旗振り通信の中継地であったと記されている。(旗振り通信の中継地を今に伝えるものとして、各地に籏山、畑山、旗振り山、相場山、相場の峰、相場振山、相場取山、相場ヶ裏山 等の名が残っている。)

ここからは私の推測の域を出ないのだが、明石藩の「畑山刑場」のある高台(実際は高台の麓に処刑場が在った)「畑山」(はたやま)は「籏山」(はたやま)とも表記される。(ここも旗振り通信の中継地とされており、おそらくは旗振り通信の廃止(禁止)とともに「籏山」が「畑山」へと変わって行ったものと思われる。)
前出の『垂水史跡めぐり』に現在の朝霧公園がかつて「籏山」と呼ばれていたと紹介されているため、畑山刑場(籏山)の比定地をここ朝霧公園と誤解したのではないだろうかと私は考えた。

尚、城跡云々という話の出所については全く不明である。
太古、大蔵谷清水(現 明石市朝霧東町、同朝霧南町 界隈)の丘の上に砦の様なものがったという話はある。
或いは明石公園(明石城址)と混同されているのかも知れない。

以上のことを踏まえ、朝霧公園が処刑場跡ではないことはお分かり頂けたことと思う。
心霊スポットではない場所の紹介となったが、事実誤認の一例としてここに取り上げた。






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