清盛塚

清盛塚と平清盛像、琵琶塚碑
治承5年(1181)閏2月4日、平家の天下を築き上げた平清盛が九条河原の平盛国邸で没した。
高熱に悶え苦しんだその最期は、藤原定家の『明月記』には「動熱悶絶の由」、『百錬抄』では「身熱火の如し」とあり、死因については諸説あるが潜伏瘧(マラリア)だったのではないかと言われている。
『平家物語』巻第六「入道死去」によると、その病状は

「入道相国やまひつき給ひし日よりして、水をだにのどへも入れ給はず。身の内のあつき事、火をたくが如し。ふし給へる所四五間が内へ入る者は、あつさたへがたし。ただ宣ふ事とては、あたあたとばかりなり。すこしもただ事とはみえざりけり。比叡山より千手井の水をくみくだし石の舟にたたへて、それにおりてひえ給へば、水おびただしくわきあがッて、程なく湯にぞなりにける。もしやたすかり給ふと筧の水をまかせたれば、石やくろがねなンどの焼けたるやうに、水ほどばしッて寄りつかず。おのづからあたる水は、ほむらとなッてもえければ、黒煙殿中にみちみちて、炎うづまいてあがりけり。」

(現代語訳 / 付加意訳)
清盛様は病に罹られた日から、水さえお飲みにならない。体の中の熱さは、火を焚いているようである。横になっておられる清盛様の側7~9メートルまで近づくと、その熱さに耐えられないほどだった。
仰ることは「熱い、熱い」ばかりだった。
とてもただごとではないように見える。比叡山から千手井の水を汲んできて、石の浴槽一杯に満たしてそれに浸って体をお冷やしになると、水が激しく沸き上がって、すぐに湯になってしまった。
もしやお助かられるかもと思い、筧(かけい)の水を注いだところ、焼けた石や鉄なのように、水をがほとばしって寄り付かない。たまたま当たった水は、炎となって燃えたので、黒煙が屋敷中に充満して、炎が渦を巻いて燃え上がった。

と記されている。
病に伏してから4日目の閏2月2日、日を追う毎に悪化する清盛を見て、妻の時子(二位殿)が熱さに耐えつつ清盛の枕元に寄って、遺言を求める。病の床で、清盛は「自分が死んだら頼朝の首をとり、我が墓の前にかけよ。それが一番の供養だ」と遺言する。

前出の『平家物語』巻第六「入道死去」には、その時の様子が次の様に書かれている

「われ保元、平治よりこのかた、度々の朝敵をたひらげ、勧賞身にあまり、かたじけなくも帝祖、太政大臣にいたり栄花子孫に及ぶ。今生の望一事ものこる処なし。ただし思ひおく事とては、伊豆国の流人、前兵衛佐頼朝が頸を見ざりつるこそやすからね。われいかにもなりなん後は、堂搭をもたて孝養をもすべからず。やがて打手をつかはし、頼朝が首はねて、わが墓のまへにかくべし。それぞ孝養にてあらんずる」

(現代語訳 / 付加意訳)
われは保元、平治以来、何度も朝敵を平定し、恩賞は身に余り、畏れ多くも天皇の外祖父、太政大臣に就き、栄華は子孫に及んでいる。今生の望みはひとつも残るものはない。ただし、気がかりな事としては、伊豆国の流人、源頼朝の首を見なかったことだけが心残りだ。
われが死んだ後は、仏堂や仏塔を建てて供養することはない。すぐに討伐軍を遣わし、頼朝の首を刎ねて、わが墓の前に持って来い。それこそが供養である

と言い残したという。

清盛の遺体は愛宕で荼毘に付された。遺骨は清盛の出家の師で能福寺住職の圓實(円実)法眼(えんじつほうげん、左大臣徳大寺実能の子)が頸にかけて摂津の国に下り、清盛が大輪田泊に築いた経ヶ島に納めたとある。
経ヶ島があった場所については、度重なる地形変化等により特定することが困難だが、神戸市兵庫区の阪神高速3号神戸線以南、JR和田岬線以東の範囲と考えられている。また、経ヶ島築造に当り人柱となった松王丸の石塔がある来迎寺(築島寺、神戸市兵庫区島上町)周辺とする説もある。

この様に非業の死を遂げたゆえか、清盛塚には幽霊が出るという噂がある。
地元では有名な心霊スポットとも聞いたが、怪奇現象や幽霊が平清盛に起因するものか否かは定かではない。
ただ、「大輪田橋」でも述べたが周辺は神戸大空襲で多くの命が失われた場所でもあり、清盛塚に限らず周辺では空襲で亡くなった方の霊を見たといった話や、異質な空気を感じる人もいるという話がある。

同じ平氏ということからか、大河ドラマで平清盛の知名度が上がった事や“平将門の首塚”が有名過ぎるせいか、インターネット上では東京都千代田区大手町にある「将門塚」のことを「清盛の首塚」と間違えている例が多々見受けられる。
これらの混同、誤認も清盛塚が心霊スポットという印象に拍車をかけているのかも知れない。

切戸町には「清盛塚」と呼ばれる高さ8.5メートル(相輪部を除く)の立派な十三重石塔がある。基礎南面の両端には鎌倉時代の「弘安九年(1286) 二月日」の銘がある。江戸時代前期より鎌倉幕府執権、北条貞時が清盛の供養のため建立したという伝承が江戸時代前期より流布していた。
元々は現在の場所より南西10メートルほどの所にあったが、大正12年(1923)、神戸市電の軌道敷設にともなう道路拡張工事により現在の場所に移設された。
元禄5年(1692)の『兵庫寺社改帳』には、敷地十三間半(約24.5メートル)に三十六間半(約66.4メートル)と記されており、明治34年(1901)に発行された『神戸覧古』には、江戸時代の清盛塚として、松林と共に石垣が組まれた土壇の上に玉垣に囲まれた石塔が描かれている。
長らく平清盛の墳墓とされてきたが、前述の大正12年の移転に際し行われた調査で墳墓ではないことが判明し、近年の研究では清盛の供養塔であるとの説が有力となっている。
傍らに立つ平清盛像は、神戸開港百年を記念して、昭和47年(1972)、地元有志によって建立されたもので、朝倉文夫に師事した彫刻家、柳原義達の制作による。

十三重石塔の傍らには「琵琶塚」と刻まれた大きな自然石の碑がある。
以前は清盛塚と小道を挟んで北西に前方後円墳があり、その形が楽器の琵琶に似ていたため琵琶塚と呼ばれていた。
琵琶塚という名前から琵琶の名手、平経正と結び付けられ、いつしか経正の塚と言われるようになったが、古墳時代と源平時代では年代に大きな隔たりがあり、伝承の域を出ない。
石碑は明治35年(1902)、自然石を利用して地元有志によって建立されたもので、大正12年の清盛塚移転に伴い石碑のみをここに移した。

今回の草稿の作成、執筆にあたり Nightmare様(from Nightmare's Psychiatry Examination)に多大なるお力添えを頂きました。この場をお借りしてお礼申し上げます。



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