須磨水族館の周辺

神戸市立須磨海浜水族園
平成17年(2005)9月14日、弊サイトをよくご覧くださっている流れ者様から下記のような情報のご提供を頂いていた。

“須磨の水族館の周辺はそこかしこで良く出るとの事、聞いた話では昔火葬場か処刑場だったみたいです。”(抜粋)

須磨水族館(現 須磨海浜水族園)周辺は古くは源平合戦の有名な古戦場であり、心霊スポットと言われる場所も点在している。(真偽の程は別として、境川、敦盛塚、鉢伏山、鉄拐山、赤灯台、N病院、幽霊が出ると言われるラブホテル、松風町高架側壁須磨水族園前のバス停等がある。)
しかし火葬場や処刑場が在ったという話は寡聞にして初耳だった。

処刑場といえば東の兵庫津に大坂町奉行所の処刑場、西の明石に明石藩の畑山刑場が在ったことが史書により確認されているが、須磨周辺に処刑場が在ったという話は確認できなかった。
噂レベルであっても“火の無い所に煙は立たぬ”の譬えもある様に、何か噂の元となる様な出来事や話があったのではないかと想像を逞しくする。そうすると、いくつかの思い当たる節も出て来ない訳でもない。

処刑場という話に直結はしないが、先に少し触れた様に一の谷から西一帯の海岸は源平の戦いにおける一の谷の戦いの舞台となった。この時、須磨の浦で平清盛の甥(清盛の弟経盛の末子)敦盛が源氏方の熊谷直実に討たれている。
この敦盛の供養塔とされる敦盛塚(神戸市須磨区一ノ谷町5丁目)が一の谷に、敦盛の首塚が須磨寺(同区須磨寺町4丁目)にある。処刑場云々の話は敦盛が討たれた(=首を斬られた、首塚がある)ことによるものではないかと推測してみたが、水族園と敦盛塚(敦盛終焉の地付近)では直線にして3キロメートル弱あり、敦盛が討たれた事が処刑場云々の噂の元となったとは考え難かった。

次に「須磨の関」との関係を考えてみた。
関所と処刑場、一見無関係の様に思えるこのふたつだが、稀にこの両者が混同されている事があるからだ。
何故その様な誤解が生じたのかと調べてみると、江戸幕府の基本法典『公事方御定書』に関所破りを行った者はその場で処刑(磔刑)に処すと記されている。このことから、関所で(も)処刑が行なわれていたという誤解が生じたのではないかと想像した。
須磨の関跡の比定地とされる関守稲荷神社(同区関守町1丁目)と水族園は直線にして約1.3キロメートル程。
須磨の関が処刑場と誤解されたのか否かについて決定打となるような答えを見出せず、この仮説も説得力に欠けるものであり、自身を納得させるには至らなかった。

最後に火葬場という線からのアプローチを試みた。
答えは足元に転がっているものなのかも知れない。
水族園から西に500メートルほど行った所に「旧和田岬灯台」(赤灯台、同区須磨浦通1丁目)という江戸時代末期に建造された灯台がある。「赤灯台」の項で触れたが、この周辺は昭和20年(1945)の神戸大空襲では亡くなった方の遺体の安置場となり、おびただしい数の遺体が海岸を埋め尽くした。空襲で亡くなった方々の遺体は離宮公園や天上川の河原で荼毘に付されたという。
離宮公園や天上川の河原まではある程度の距離もあり、遺体の数も相当だったようなのでここで野焼きにされたこともあったのではないだろうか。
流れ者様が言われていた「火葬場か処刑場」とはこの話に起因するものではないだろうかと思うが、あくまで私の推理の域を出ず、引き続き調べる必要があると思われる。



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